憎しみを超えて NIYONIYO

ヒュー・ブラウン氏へ  インタビュー・シンフォニー

Will

会田正宣


 生まれ育った過程で、そこそこに宗教になじみがあった。学生時代のあるとき、宗教組織の先輩と車内の液晶テレビを見ながら、話しをしていた。チベットだったか、伝統的な宗教儀式の場面が紹介されていた。その先輩はこんな意味のことを言った。「間違った教えを持っている人々は不幸だ。我々が正しい教えに導かなければならない」。自分の中に、小さな違和感が湧くのを覚えた。「間違っているのかも知れない?しかし、他の人の宗教や価値観を、簡単に切り捨てられるのだろうか?だれが裁けるのだろうか?」液晶の画像のように、世界が今までと違って鮮明でなくなった。
 原点…。一般的には、クリアなビジョンのようなものかと思うが、僕にとっては次々に起こる疑問符だらけの中に置かれた。以来、宗教をはじめ、いろいろな価値観が対立に結びつくことに、関心が強くなった。
 宗教や価値観といったものが、互いに譲れなくなるとき、対立はとても深刻になるように思う。問題はこぶしを挙げての対立だけでない。精神的、人格的な根底に根ざすからだ。僕も人並みに正義感がある。「自分が正しい」と思ったことを、人に強く伝えたいと行動する傾向が自分の中に強くある。知らず知らずに押しつけてしまっているかも知れない、と思う。

−日本では、北アイルランド紛争はカトリックとプロテスタントの戦いと受けとめられているが、宗教の対立なのですか?

「宗教とほとんど関係はないです。全くないとは言えないが、テロ活動をしていた時、私は宗教に全く関心がなかった。周囲のテロリストも、宗教に関心がある人、教会に行く人は全くいなかった。無心論者ばかりです。IRA、UVFのどちらでも、『宗教のために戦っているのか』と聞いたら、笑われます。IRAは共産主義的な考えで、もともと宗教を廃止したい、マルクシズムですね。昔のUVFには『for God and Ulster』というバッジがあります。昔、イギリスのために戦った誇りから、今もバッジを持っている人がいるが、皮肉なことに、今は神には全く関心がないです。」

−北アイルランドでも以前、宗教対立の側面がありました。長い歴史の中では、十字軍など宗教的なものもあったと思います。

「それは宗教ではないですね。ニセ宗教で、本当の宗教ではない。第2次世界大戦中に、日本の軍事政権は神道を利用して、宗教の名を借りて使ったと思うが、それと同じだと思います。十字軍などすべて、国の指導者、権力を持つ人間が勝手に宗教を借りて、自分の政治的な目標を達成するために利用する。それは宗教ではない。日本にも、アイルランドの歴史の中にもあります。
 一つ、イスラム原理主義は宗教と政治が一体になっている。テロを理解する上で、イスラム原理主義は他のテロ組織と違います。イスラム原理主義は宗教のためにやっているが、アイルランドや他の国は全く宗教のためにやっているという意識はないです。」

 

 一つの価値観を共有する組織のまとまりは強い。自発的に、自らを捧げることが喜びになるから。また「敵」がいるとき、「味方」の絆は強くなる。ただ、「敵」「味方」とは何だろう?そこを分ける敵意や憎悪は、なぜ生まれ、再生産されるのか、再生産されるに当たってだれが火を注ぐのか…。タリバーンのようなイスラム過激原理主義は、イスラム全体の支持を得てはいない。しかし、一定の支持があることも確かだ。そこには、権力者の意図だけでなく、それを受け入れる土壌もあるだろう。緒方貞子さんは米国同時多発テロ事件、アフガニスタン空爆後のテレビ番組のインタビューで、「社会の安定がないと、現実は弱くなる」と言っていた。世界の経済格差の矛盾が広がる中で、貧困や差別が人を追い立て、不安感や絶望感が支配的になるにつれ、過激な言動は浸透しやすい。絶望を託すのかも知れない。自分もそうなるかも知れない。

 

−政治が宗教と結びついて、宗教を利用していくと、人がだまされやすくなるし、影響力も大きくなる。『神のために戦う』といった言葉はきれいで、『正義』や『大義』が与えられた場合、危険性が高いと思いますが?

「信仰を持っている人が政治家になってもいいと思います。過去には奴隷の解放など、素晴らしいことを実現してきた政治家は熱心な信仰を持っている人が多かった。しかし、宗教を自分の政治目的に使おうというのは危険です。上に立つ人がそうすると、国民がだまされやすい、利用されてしまう。歴史にたくさんの事例があります。一つだけ言えると思うのは、宗教の指導者が政治家にならないでほしい。なるべきではない。
 宗教を利用している政治家は少なくないですが、本当の宗教家は、絶対、それをしてはならないことを、よく分かっているはずです。イスラム原理主義の指導者のオサマ・ビンラディン氏は、アメリカへのテロ、それに対して攻撃されて、勝手に「イスラム教とキリスト教の戦い」と言っている。イスラム教とキリスト教の戦いではないのに、世界中のイスラム教徒に、アメリカと戦うように呼びかけている。自分の政治的な目的に利用しているだけです。政治家は宗教をよく利用してきました。アメリカの大統領も、選挙になると、『自分は素晴らしいクリスチャンだ』と、毎週教会に行く姿を見せたりしている。」

 

 「神」「聖戦」「正義」「愛」「自由」…。美しく、とても魅惑的な言葉だ。乾いた、純粋な少年の心を、恵みの雨のように潤すには十分だろう。教育が貧しく、情報が閉ざされているとき、自分をいろいろな角度から見て、自分なりに判断して生きていくことが難しくなると思う。タリバン政権下の子どもや市民も、どれだけ世界の広さ、歴史の深さに触れることを許されたのだろうか。翻って、「悪の枢軸」といった言葉をためらいもなく使うことができ、またその大統領を支持する人々が、どれだけ自己を深く見詰め、一人よがりから抜け出す視点を持てているのだろうか。
 会社、社会なり、何らかの組織ができるところで、個人の思いを超えて方向が突き進んで行ったり、個人の気持ちが決定的に制約されたり…世の常だろう。入社1,2年目のころ、薬害エイズ事件が大きくクローズアップされた。その中で、被害者とは別に、厚生省の役人や製薬会社の社員のことも思った。「何を大事にして生きていくのだろうか」。組織の論理が、組織内で慣れていくにつれ、自分の思考も麻痺していくだろう。義父は「組織のカラーに染まらないやつは、よっぽど賢いか、よっぽどの馬鹿か、どちらかだ」と言っていた。

 

−狂信と本当の宗教の違いについて

「オウム真理教の事件があったが、宗教と言ってよいか分からないものに、たくさんの人がだまされている。日本ほど新興宗教の盛んなところはない。何が本当の宗教か見分けるには、キリスト教にも言えるが、宗教が自分自身の自由を認めてくれなかったら、それは本当の宗教ではないと言えます。ついていけない、従いたくない時、プレッシャーをかけられたり、強制されたりするようなことがあったら、そこから離れた方が良いです。本当の宗教は人の自由を奪う必要がない。絶対ないです。」

−「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい」「汝、敵を愛せ」などのキリスト教の教えは、日本人でも聞いたことがある。そんな教えがあるのに、殺し合っている。

「全く、宗教を信じていないからです。話しを聞かされても、信じていない。私も12歳まで毎週教会で話を聞かされたが、20歳になって初めて自分から受け入れるまで、信じていなかった。いくら教えられても、本人が心から受け入れなければ、自分と関係のない話しです。日本人でも、キリスト教のことをある程度知っている。それなのに、キリスト教の信者が殺しあっているニュースを聞いて、素直に受けとめてしまうのが不思議です。本当のキリスト教の信者かどうか判断できるはず。キリスト教の教えと、人を殺すことは、すごい矛盾でしょう。
 心から受け入れ、信仰を持っている人は全く紛争に関わらず、平和のために祈ります。私の両親や一番上の兄は、信仰を受け入れてクリスチャンになり、全く紛争に関わりませんでした。教会を12歳でやめた私は紛争に関わった。同じ家族の中でもはっきりと見えます。」


 「相手を変えようという考え方は、衝突を起こす」「相手を尊重したい。強制的に押しつけるのは嫌いだ」といった、ブラウン氏の言葉が胸にしみる。信仰を広めるのが仕事でもある人にとって、押しつけない姿勢を保つことは、真に寛容でなければできないと思う。「本当の宗教は押しつけない。自由を奪わない」とも言う。
 本当の宗教、本当の信仰とは何なのだろう?ここ最近、宗教性ということを考えている。宗教というと、組織、教義への忠実さなど、いろいろなことが付随してくるので、祈りの対象の違いはわきに置いて、個人の祈りの姿勢を、宗教性という言葉で考えたい。

 

 

 

 

−祈ることとは、人間にとってどんな意味を持っているとお考えですか?

「人間にとって本質的なことだと思います。教えられなくても、本能的に、自然に祈る気持ちが人間の中から湧いてきます。原始的な部族も何かに対して祈っている。人間と動物の違いです。動物は祈らない。キリスト教の考え方ですが、人間は神とともに歩む、交わりを持つ者として創造されました。自分より大きな者を本質的に感じている。人間はそのようにつくられています。パスカルの言葉ですが、「すべての人の中に神の空白がある」。物質的なものが手に入っても、心は満たされない。神しか満たすことはできないという意味です。祈りは人間にとって必要なことです。
 私にとっては、祈りは神とのコミュニケーション。神から語られる。自分のためにでなく、他の人のために祈る。自己中心的な所から解放されることでもあります。」

−キリスト教、イスラム教、仏教、その他にもたくさんあるが、互いに違う神、違う者を祈っています。それが互いに共存できるか?また他の宗教に対してはどう思っていますか?

「祈ることには危険な面もある。どういうものに祈っているか分からないまま、自分が精神的にしばられてしまうこともあります。何に対して祈るかは、よく自覚し、理解しなければ。本当の信仰は他人と争いません。自分も信仰を持って、人を傷つけるようなことから救われました。他の宗教に対してですが、相手の気持ち、相手の自由を尊重しなければならない。相手が信じていることを、否定したくはない。強制的に押しつけたくもない。聖書が「天地創造の神以外に祈ってはいけない」と言うのは、悪霊などに祈ると危険だからです。」

 

 ブラウン氏は「祈りは人間にとって本質的なもの」と言う。祈りは、何か大いなる存在とコミュニケーションを取ろうとする人間の意志ではないかと思う。一個の人間が、世界の中でどう生かされているのかを観じ、憎しみや怒り、悲しみも人間に備わる基本的なものだ。しかし、それは感情だ。祈りは感情でなく、意志だ。
 Willは未来形を表す。未来は、意志が規定していく時間の旅だからではないか。祈りは大いなる存在に自己をゆだねるとともに、旅路を行く意志であると思う。その意志、祈りの姿勢が宗教性ではないかと思う。
 人は感情に流されるままにとどまるだけではなく、感情を意志によって乗り越えることができる。ブラウン氏は「ひどい傷を忘れることはできない。しかし、それは許せないこととは違う」「憎しみを超える唯一の方法は、許し合うことです」「許さないと決めると、被害者は被害者のままである」と言う。祈る、許す、愛する、ということは、最も能動的な意志の姿勢だと思う。
 原点から十年あまり経つ今、自分の中の疑問だらけの世界は変わらないが、薄暗くも光が差し込んでくるように感じた。祈りと祈りは交わされ合うはず、交わされ合ってほしい…。ブラウン氏との出会いは、そんな希望を運んでくれた。ここに謝したい。


【会田正宣】

 学生時代、環境問題を研究するサークル「なちゅれ」を主宰。楽器や空手など四方八方手を出すが、身につかないことばかり。気の多いB型。今は中国語に取り組む。アイルランドのロックグループ「U2」ファン。仙台在住の記者。横浜出身。


基調講演を読む

インタビュー・シンフォニー(憎しみを超えて インタビューの一覧です)

★尊び、分かち合うこと      (高橋理麻)

★他人を許すことは自分のため (相原厚子)

★テロリストの転機         (豊田百合枝)

★光を求めて            (佐藤きよみ)

★思                 (飛田裕子)


トップに戻る

感想コーナーへ行く
メールで感想をお寄せいただいた方に、オリジナルデスクトップ壁紙プレゼント!