| NIYONIYO | |
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らいに生きて |
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| 平沢保治さん |
(聞き手 会田正宣) |
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【ハンセン病(らい病)】 らい菌によって、皮膚や末梢神経が侵される感染症。1873年にノルウェーのハンセンが菌を発見。菌の感染力は弱く、感染しても発病するのは、幼児期に感染したものがほとんど。1943年の「プロミン」による化学療法の発達で確実に治癒するようになった。 |
| 【ひらさわ・やすじ】 1927年、茨城県生まれ。13歳のとき発病し、14歳で東京都東村山市の国立療養所・多磨全生園に入園。高松宮記念ハンセン病資料館運営委員、多磨全生園入園者自治会会長。東京地裁でのハンセン病国家賠償訴訟の原告の一人。 |
戦後、ハンセン病治療の権威・光田健輔氏らの国会参考人招致などを経て、53年、らい予防法改正。強制隔離や外出制限などの項目を維持。56年、ローマでの国際会議で隔離政策の撤廃を決議したが、日本では根本的に政策は変わらず、ようやく96年4月、らい予防法が廃止された。 2001年5月、熊本地裁が国家賠償訴訟の判決で、らい予防法の違憲性と、法律を存続させた国会の立法上の不作為を指摘。国は控訴を断念し、6月、元患者に対する補償法が可決された。 |
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会田− ハンセン病の元患者が起こした国家賠償訴訟で、熊本地裁が隔離政策を違憲として、国と国会の責任を指摘した判決を出しました。その後、国が控訴するなどと報道され、最終的に政治判断ということで控訴が断念されましたが、今どのようなお気持ちですか。 平沢 「判決は、1960年以降は隔離の必要がなく、国や、らい予防法を改廃しなかった国会の立法上の不作為を認めました。私たちは、らい予防法が改正された1953年当時、既に隔離の思想は間違いだったとの立場でした。5年前にらい予防法が廃止されたとき、当時の菅直人厚生大臣が「遅かった」と謝罪したが、法律自体が過ちだったとは言いませんでした。画期的な判決です。当初、控訴した後に和解といった話しがありましたね。自分たちの行っていたことは間違いだが、国会議員の立法責任の判断が法律的に問題あるというのは、官僚主義的で説明がつかない。控訴してから和解というのは矛盾です。 まだ「遅過ぎた春」で、スタートラインについたばかりです。長く、医学的根拠がないのに、らいが恐ろしい病気だとの偏見が過剰なまでに撒き散らされてきた。これまで受けてきた傷があまりに深い。国が謝っても、第3者はいいかも知れないが、肉親はまだ恐れており、元患者が家に帰っても、「迷惑がかかる」「社会生活をこわされるのではないか」と心配する状況です。ふるさとに帰って家の敷居をまたぐには、地域の中にある偏見が払拭され、一般の疾患などと同様に受け入れられるようになって、ようやく可能です。国や社会が反省に立って、間違ったイメージのない環境をつくれるかが一番大事です。らい予防法廃止の際の国会の付帯決議に、らいが正しく理解されるように啓蒙する取り組みも盛り込まれたが、現実には何もなされず、理解は進んでこなかった。お金より、社会復帰、社会の正しい理解が進むことが大事です。私たちも含めて、これからです。」 |
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会田− 平沢さんのこれまでの歩みを教えていただけますか? 平沢 「私は十三歳で病気を宣告され、十四歳のクリスマスイブに多摩全生園に入りました。東大で「一年治療すれば治る」といわれ、早く直したかったから、正月を迎えず、クリスマスに入園したのですが、そのまま強制隔離です。 |
多磨全生園内の納骨堂。故郷に帰れなかった約3000人の遺骨が納められている。 |
| らい予防法では、外出に許可が必要で、肉親が死んだときぐらいしか外出が許されなかった。私は年に一回ぐらい、母や兄弟が死にそうだといって、故郷に戻りましたが、人目につかないよう、実家は裏口から入り、帰るときも家族は見送りに来れません。病気で苦しんでいるのに、泥棒ネコみたいでした。毎回、「これがふるさとの見納めでは」と思いました。
戦争中、私も軍国少年で、竹かごなどの生活品づくりをしていました。「お国の恥のお前たちも、お国のために役立ちなさい」などと言われましたね。 終戦で、「日本は負けるはずがない」と思っていた私はショックで、療養所を脱走して、やけ酒を飲んで…。そのため、病気が悪化しました。前は木の実からとった「大風子油」という丸薬・注射薬が治療薬でしたが、再発すると効果がない。戦後、「プロミン」という新薬が発明されて、特効薬として治療が始まりました。私は病気が悪化したので、プロミンをたくさん使った。ふつうは1回2ccを週二回程度でしたが、5ccを週5回打ちました。病気は治りましたが、そのときの治療で手の末梢神経の感覚がなくなりました。薬は高く、実家が土地を売りました。 1950年に妻と結婚しましたが、その二年前に優生保護法が制定され、法のもとに私は断種させられました。それ以前、らい患者の結婚は、慣例で、断種すれば通い婚が認められていましたが、戦後に基本的人権の尊重をうたった憲法が制定されたのに、優生保護法では法律に明記されたんです。性まで奪われた。断種のときのことは、心の中にくぎを打たれたようで、頭の中から消えることはありません。 療養所の部屋は大部屋で、男部屋は15人ぐらいで共同でした。夫婦も個室でなく、私たちも先輩らと合わせて三組が一緒でした。妻とは、妻の悩みなどの相談を聞いているうちに親しくなりました。私は気が強く、頑固だったので、周囲は「平沢はやめた方が良い」と妻に反対しましたが、それでかえって絆が強まったようです(笑)。妻とは連れ添って、一緒に各地の講演会に行ったり。お互い、「戦友だね」と言っています。 差別はさまざまでした。タクシーは乗車拒否されたり、食堂には入れてもらえなかったり。厚生省や国会で座り込みやデモを行うと、警察官が頭からビニールをかぶったり、白衣にマスクをして患者を取り囲みました。そんな光景も、恐ろしい病気とのイメージを増幅させたことでしょう。デモでは、役所のトイレは使わせないで、日比谷公園のトイレを使わせました。「自分たちが『らいは危険だ』と言って、霞ヶ関のトイレは使わせずに、一般の人が利用するトイレを使わせる。それで、公衆衛生を守れるのか?」という笑えない笑い話しもありました。 らい予防法が廃止されるまでは、法律上、外出するには外出証明書を持っていなければならなかった。だから、 1996年3月、私は招待されて中国に行きましたが、その時は外出証明書を持って行った。法律が廃止されたのは直後の4月です。翌年、アメリカに呼ばれた時は証明書がなくなり、アメリカで「ようやく証明書を持たずに外出できるようになりました」と話しました。らい菌は感染力が弱い病気です。事実、隔離されている療養所内で、医者や看護婦などが感染したという例は一つもありません。しかし、科学的根拠のない偏見がずっと根深く残りました。日本が今世紀に犯した過ちを2つ上げるとすると、戦争とらい予防法だと思います。」 |
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高松宮記念ハンセン病資料館 |
会田− 平沢さんはいつから実名を名乗っていますか? 平沢 「園内では名前は隠していませんでしたが、対外的には、93年6月に高松宮ハンセン病資料館がオープンしてからですね。ハンセン病の歴史の事実を後世に伝えよう、我々自身の歴史が消し去ってしまわないようにと、全生園の自治会が約20年にわたって取り組んできたことが結実したのが資料館です。 |
| 資料館ができて、子どもたちを始め、多くの人にらいのことを語って行こう、真実を語ろうというときに、本名を名乗らなければならないと思いまして。多くの元患者は、らい予防法が廃止されても、実名を名乗れず、仮名を使っていました。ようやく、今回の判決が出て、実名を公表する人も出てきました。」
会田− 平沢さんが、らい予防法廃止運動はもちろん、障害者運動など人権問題に広く関わるようになった原点は? 平沢 「やはり戦争でしょう。自分も軍国少年で、「日本は神の国だ」と思い、「支那人は人じゃない」といったことを叩き込まれました。だから、反動が大きかったですね。終戦になって平和、人権が大切だと、心から思いました。自分の人生のすべてを、らい予防法の廃止、らい患者の解放、差別、偏見解消という場に身を置いてきたから、同じような苦しみや差別に、他人が苦しんでほしくない。自分だけではなく、バリアーを持った人すべてが人間らしく生きていけなければならない。 1970年、東村山市の身体障害者患者連絡協議会の結成にたずさわりました。身体だけでなく、結核患者や精神障害、ハンセン病患者が合同した稀な運動で、西武線の久米川駅にスロープを取りつけさせたり、福祉タクシー券の補助制度を実現させたりと、地域の福祉行政に大きな影響を持つ運動に発展しました。地域社会に理解を深めてもらい、対等に交流することが大事だと思っており、積極的に活動しました。その障害者運動に参加していても、会議に同席すると、私が座った椅子は消毒されたことがあり、間違ったイメージの強さを感じたこともありますが。 1957年に起こされた朝日訴訟という裁判があります。結核患者の朝日茂さん(故人)がお兄さんから仕送りをもらったのですが、結核療養所に入って生活保護を受けていたので、お金を取り上げられてしまい、朝日さんは憲法25条の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」をもとに裁判を起こした。朝日さんが結核の中で、個人の利害でなく、ハンディキャップを持った人や働く人の最低賃金も視野に入れながら闘っていた。そんな朝日さんの生き方に感動し、影響を受けましたね。 そして、母の愛情が大きいです。父は軽度のらいでしたが、発病して、母は実家に連れ戻されました。でも、母は「夫や子どもと別れたくない」と言いきり、実家に勘当されました。私が全生園に入ってからも、五十数年、ずっと私に会いに来てくれた。入園者の中には、親から「もう帰ってこないでくれ。近所には死んだことにしておく」と言われた人も少なくなかったが、母は変わらない愛を示してくれました。私を支えてくれた原動力です。」 |
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会田− 薬害エイズ運動にも参加されましたね。 平沢 「薬害エイズ事件で菅直人が謝罪する前に、薬害エイズ裁判の原告たちが厚生省前に座り込んだ抗議行動に参加しました。当時、まだらい予防法は廃止されておらず、患者仲間からは「考え方は正しいかも知れないが、薬害エイズ問題に関われば、厚生省ににらまれ、らいの運動に影響しないか」という声もありました。私は「それは間違っている。人間が人間として生きていくという思いは一緒だ」と思って、参加しました。エイズ予防法は、隔離思想など、らい予防法の悪い面をそっくり引き継いでいる。らいと同じ過ちを2度と繰り返してはいけない。 |
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らい予防法の廃止運動を通しても、「らい予防法は悪法だが、法律がなくなって療養所も廃止されたら、自分たちが生活できる場がなくなる」という仲間もいました。でも、人間らしく生きることが大事です。約十年前から、地元の小、中学校で学期の終わりに一回のペースで講演に行っています。子どもたちにはこんな話しをします。「鳥はかごに入れられ、えさを与えられれば食べる。でも、かごを開けると、鳥は外へ出て行く。なぜ飛び出していくのか。自由を本能的に知っているからだ。人間も囚われの身では、本当に人間だとは言えない」と。 会田− 被害者が「被害者であること」にとどまることも、あるように思いますが、平沢さんの生き方は、被害者という視点を超えていったように感じます。 平沢 「私は世界の多くの国に友人がいる。講演などで11カ国に行きました。言葉の壁はあっても、お互い苦しんだ体験があるから、すぐ仲良くなれる。ささやかでも、世界と手をつなぐかけ橋になれれば。 また、小、中学校で子どもたちと交流できて、話しを真剣に聞いてくれるのがとても嬉しい。子どもたちの間では、私はちょっとしたヒーローなんですよ。駅などで会っても、駆け寄ってくれてあいさつしたり、話しをしたり。今回の判決の後、「おめでとうございます。修学旅行に行くので、おみやげを持って、おめでとうを言いに行きます」という手紙をくれた子どもがいました。こちらが励まされる。 ハンセン病を勝ちぬいてきたから、今の私があります。私たちは同情を求めてはいません。生きること、いのちの尊厳とは何かを立ち止まって考えてほしいのです。誰もが一生戦いだと思います。困難にぶつかっても、たくましく立ち向かっていってほしい。自分の与えられた環境を、最大限生きることが、人間の最大の幸せだと思う。子どもたちには、そのことを一番伝えたいと思っています。」 トップに戻る インタビューを終えてを読む 感想コーナーへ行く メールで感想をお寄せいただいた方に、オリジナルデスクトップ壁紙プレゼント! 【関連リンク】 |
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高松宮記念ハンセン病資料館 |
国立療養所多磨全生園内に設けられた資料館のページ。ハンセン病の歴史を知るにはここから! | |
| ふれあいホームページ |
国立療養所多磨全生園の保健科スタッフでつくるページ。園内の風景や、みなさんの温かさが伝わります。 | |
| ハンセン病回復者とふるさとを結ぶ |
ハンセン病回復者とふるさとを結ぶHP作成委員会。ハンセン病関係のネットワークが充実しています。 | |
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| モグネット | ハンセン病に関する情報提供、ワークキャンプ、刊行物の紹介など | |