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宝石の声 |
岡倉天心とインドの女性詩人 |
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(室井慧) |
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岡倉天心(岡倉覚三)亡きあと、こう書いた女性がいた。プリヤンバダ・デーヴィー・バネルジー。当時41歳の、インド・ベンガルの詩人である。 |
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| 1912年10月、インドの港を離れてボストンへと帰る船から、天心は彼女に綴り始めた。それは「永久に満たされないがゆえに憧れは美しいのでしょうか。岡倉覚三 お手紙いただけますか」で結ばれ、自作の漢詩とその英訳が添えられている。
その頃、天心はボストン美術館の日本や東洋の美術品を充実させるため、ボストンへ年に半分ほどの割合で赴いており、さらに欧州や中国、インドなどへ作品の調査や収集に出かける精力的な毎日を送っていた。彼がインドに滞在した短い邂逅ののち、二人が会うことはない。翌年の晩夏、彼は病のためにプリヤンバダを恋いつつ世を去り、彼女はそれから20数年を経て63歳で没した。 |
【岡倉覚三 号・天心】 1862(文久2)年、横浜生まれ。東京大学文学部卒業。明治17年、文部省の京阪地方古寺社調査にフェノロサと共に赴き、数百年間、開けたことの無かった法隆寺夢殿を開扉させ、秘仏救世観音像を白日の下に晒したことは有名。 東京美術学校初代校長。明治31(1898)年、彼を中傷する怪文書事件を発端に、美術学校辞職。弟子の横山大観、下村観山などを率いて日本美術院を創設。明治37(1904)年以降、アメリカボストン美術館の中国・日本部顧問となり、同44年秋からは同館学芸員として、日本東洋美術品購入の責任者となる。大正2(1913)年、51歳で没。 |
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彼らを繋いだものは手紙のみ。しかも船便で。 日本の美術および美術史、美術教育への天心の功績は絶大だが、波瀾に富んだ多忙な日常は言い知れぬ憂愁をもたらしていたらしい。 一方、因習やカースト制度、未亡人への目も厳しかった当時のインド社会において、若くして夫も子も亡くしたプリヤンバダの生活は、孤独でひっそりとしたものだったろう。 |
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天心とプリヤンバダ イラスト・程彦平 |
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二つの魂は、遠く隔てられ、船便を待つ長い時間に阻まれながらも確かに通じ合った。 彼らが手で書く手紙は、日常を伝え、健康を気遣い、自作の詩を贈り合い、言葉を尽くしている。書くことはすなわち生きることだったに違いない。心を通よわせ得る人と巡り逢えた喜びは計り知れない。だからこそ、その人を失った悲嘆はどれほどに激しかったことか。どんなに時代が変ろうと、それは変らない。だが、いろいろなことが軽便になっていく今日、人の気持すらも少しづつ剥離していくように思える時も多い。 |
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ことば欲るは愛欲るこころ いくたびもすりきれるほど文読みかへす 海をへだてて交はす手紙のおもさなきメールを消してわが存在も消す |
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天心とプリヤンバダの往復書簡集『宝石の声なる人に』を読んでこんな歌を作ったのは、電子メールを始めて間もない頃だった。海外で生活する姉や友達とも瞬時に繋がれる便利さに新鮮な喜びを知ったのも事実だし、この利便性が人間の幸福のために追求されてきたのは疑いない。が、天心たちの重く深いそれにくらべて、思いの質は徐々に、確実に変化してきたようだ。 ある時、学生が「傷つけない、傷つかないためには恋人とさえもお互いに辺り障りの無い話しかしない」と言うのを聞いて、薄ら寒くも感じた。ガラスのように脆く繊細な魂。傷つかないかもしれないが内奥で結びつくこともなく、その寂寥はより昏いのではないか。 いかに深く通じ合える人間と出会おうとも、個人の持つ孤独感が消えることはなく、どんな人間も他者と一体化することはできない。おのれひとりを生きていくより他はないのだ。しかしそれゆえに、魂を癒す別の魂と分かち合う時間は、いつかそれを失うとしても、尊いのではないか。 プリヤンバダの天心をめぐる手記は次のように終る。
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