NIYONIYO
色褪せる絵画
村上春樹 「国境の南 太陽の西」に寄せて
(内藤貴)


「国境の南、太陽の西…そういう場所があるのよ」

 それはおそらく、未来の自分を待ち受けているかもしれない、まだ見ぬ新世界。あるいはまた、これから先の状況を切り拓くなかで変貌を遂げる、新しい自分。村上春樹の『国境の南、太陽の西』には、主人公「僕」がそういう場所を追い求め喪っていく様が、淡々と描かれる。

「僕はこれまでの人生で、いつもなんとか別な人間になろうとしていたような気がする。僕はいつもどこか新しい場所に行って、新しい生活を手に入れて、そこで新しい人格を身につけようとしていたように思う。僕は今までに何度もそれを繰り返してきた。

 それはある意味では成長だったし、ある意味ではペルソナの交換のようなものだった。でもいずれにせよ、僕は違う自分になることによって、それまでの自分が抱えていた何かから解放されたいと思っていたんだ。僕は本当に、真剣に、それを求めていたし、努力さえすればそれはいつか可能になるはずだと信じていた。でも結局のところ、僕はどこにもたどり着けなかったんだと思う。僕はどこまでいっても僕でしかなかった。僕が抱えていた欠落は、どこまでいってもあいかわらず同じ欠落でしかなかった…」

 新しい自分への喪失感を描いたこの物語に、僕は自分の経験を重ね合わせることがある。十代の頃、僕は環境問題の解決を夢見ていた。今から思えば、それはあまりにも大きな理想だ。しかし、それは僕の日常生活にかなりはっきりとした目的意識を持ち込んだ。解決に近づけそうな思想と行動には意味が与えられ、そうでないものには意味が失われていく。僕は自分の世界観を新たな配色に合わせて大胆に塗り替えようとしていた。すべてのものごとは、極端に言えば善と悪の2色に塗り分けられるような…。国境の南には、解き放たれた世界があるような気がしていた。

 しかし、その試みは最初から矛盾を抱えていた。いま僕が食する食事でさえ、生産過程で農薬から完全に解放されることはないし、物流過程で大量の化石燃料が消費されるという事実からも免れることはできない。環境にまつわる問題をわが身に引き寄せれば寄せるほど、いちばん身近な現実である「僕が生活しているということ」、それ自体を完全な「善」色には染め上げられないのだ、という思いが徐々に強まった。そして、それが精神的な圧迫感にまで達したとき、僕の世界観は僕の内面の力によって変更を迫られた。おそらく異なる配色が、僕自身とその生活を肯定できる力が必要なのだ。しかしそのような配色など見当もつかない。新たな配色とて、結局は似たようなものではないのか。僕はどこまでいっても、僕自身の問題へと戻されるのでは… 

イラスト。チャンヤンピンさんの作品 コミュニケーションです

design by 程彦平

 問題は、新たな配色いかんにあるのではなく、永遠に失われない配色を求める僕自身の方にあったのだろう。絶対普遍と思い込んだ配色にしたがって色を塗るのではなく、僕がいま描ける色を塗ること。僕に必要なのは、生活の中に、手の届くところに、僕自身の傾向に沿ったかたちで、僕が考え行動する意味を見出していくことだった。たとえ、その色と意味を失う可能性が僕の傾向として拭い去れないとしても。

 いまの僕には環境問題だけが問題なのではなく、それも生活の中のひとつの問題だ、ということになっている。かなりのスケールダウンだが、食事の意味を疑うだけでノイローゼになっていては、とてもやっていけない。僕はいつでも、「僕でしかなかった」というポイントに戻されるだろうし、そこからしか出発できないのだと思う。

 僕はどこにもたどり着けないのかもしれない。しかし手持ちの絵の具で、僕は自分の世界観に色を与え、自分の思想と行動に小さな展望をもちながら、未来予想図を描き、歩きつづけるほかにない。それは絶えず描き替えられていくはずだ。時に色褪せていく古い色の上に、新しい絵の具を次々と重ねていくことによって。どこかにたどりつくとしても、その場所は今の描写力では描けない。今の自分を十代に想像できなかったように。

 国境の南、太陽の西…そういう場所があるのかどうか、いまの僕にはわからない。それは、描かれては色褪せていくひとときの理想郷として、いつも僕の半歩先にたゆたう。


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