NIYONIYO Vol26(2007年夏号)
未来に盲目とならないために
臼井 惠さん 聞き手  会田正宣 かず 桃花

会田−医師の傍ら、絵を描くようになったきっかけは何でしょうか?
「実は中学、高校のとき、美術と音楽、体育が嫌いでした(笑)。当時はひたすら嫌いだっただけですが、今考えると、美術はそれぞれ好きなものを描く、ということで良いはずなのに、学校で『これを描け』と言われ、点数をつけられるのが嫌いだったのかなと思います。中学の担任が美術教師で、抽象画を描く人でした。僕は落ち葉のスケッチなどは好きで、そうした絵を描いたら、『こんなのを描けとは言っていない』と言われ、やり取りをしているうちに『絵なんてどうでもいいや』という気になったのですね。音楽やスポーツも本来、同じですが、自分の好き好きでいいはずのものを、することを決めて点数をつけるなんて方法は問題があると思っています。何かのきっかけで目覚めた場合はいいかも知れませんが、本当は好きだったかもしれないものを嫌いだと思って過ごす人も大勢できそうです。
 大学で医学部に入ったのは、さしたる目標もなく、医者になるという意識もなかったのですが、消去法で消して行ったら、医者になりたくない理由もなかったので、受けたら合格して入りました。今考えると、この理由も自分でもよく分からないのですが、本当は航空工学をやりたいと思っていました。ただ、父親の転勤など家の事情で、航空工学ができる大学に受験できなかった。やりたくない理由がないのが、医学部と法学部という程度でした。

【うすい・けい】仙台市出身、東北大医学部卒。虎の門病院で研修医を務め、東北大に戻った後、1980−82年に旧西ドイツに留学。麻酔科、透析治療が専門。仙台市内の病院の勤務医を経て、2002年に医療法人社団「ぶなの森」を設立、理事長。1996年から毎年、仙台(近年はきらやか銀行仙台支店)と東京でペン画の個展を開催する。

入学後、馬術部にも入って楽しくやって、自分がなるなんて考えもしなかったのですが、見事に5月病になってしまいました。そのとき何を考えたのか、北泉ケ岳に登りました。その当時は人が大勢行く山ではありませんでした。山を歩いていて、信じられないほど、たくさんの花が咲いていました。その花の名前がまるっきり分かりませんでした。
 子どものころから、チョウを採っていました。採って標本にしていたのですが、採るときに傷つけてしまうので、完全な標本をつくるには人工飼育だと思い、人工飼育を始めました。どのチョウが何の葉っぱを食べるということは一対一で知っていました。それが泉ケ岳に登ったとき、花の名前が呆れるくらい分からなかった。帰ってくるとき、僕は植物をチョウのえさとしか思っていなかったが、植物は植物として命を持っているのだということに気がつきました。後で図鑑で調べようと思い、写真を撮ってきました。図鑑で調べようと思ったのですが、甘かったですね。図鑑は大体、この種はこの科にあるといったことが分からないと、使えないのです。それで理学部の植物の先生のところに毎週のように通って、植物のことを学びました。片っ端から教えてもらい、3ヶ月ぐらい経って牧野鑑も使えるようになりました。
 2年ぐらい、せっせと写真を撮ってきて図鑑を見ていましたが、参照するには写真より絵の方が特徴をばしっと描いているんですね。大学卒業間際に、神田の古本屋で植物画集を見つけました。植物学者や絵描きが描いたものではなく、素人が描いたものですが、素人でもこのくらい描けるなら、『自分も描いてみたら、写真で感じていた限界を破れるのでは?』と思いました。それで、植物画を始めました。山形出身の友人に誘われて、大学卒業の年からスキーもしていて、東京の虎の門病院で研修医をしていたときに山岳スキーを始め、富士山に行ったりしました。植物画と同じスタイルで、『写真より絵だったら面白い』と、山の絵も描くようになりました。そのころは太いサインペンで、ドットが1ミリぐらいの、今思うと漫画のようなものです(笑)」
桃花−実際にその場で描くのですか?
「その場ではスケッチをして、スケッチブックをもとに家で描きます。ペンで描くのは細かい作業ですので。旅行などで行ったさまざまな所のスケッチをもとに描いています」

かず−ペンはどんなペンを使っているのですか?また色を使わずに一色なのは?
「ペンはふつうの文房具屋で売っているものです。一枚描くのに、一本使い切ります。最後まで同じ太さで描けることと、途中でペンを変えるとインクの色が微妙に変化してしまうので。色を使わずにペンだけで描いているのは、大した理由はありませんが、山に登ったとき、一人でコースタイムなどの記録を、スケッチブックとサインペンで書いて残していました。だから、荷物にならず、あったもので始めたということですね。

七ツ森

 植物画を描いていたときは、鉛筆のドットと透明水彩絵の具を使っていました。しかし、水彩は色が溶けてしまいます。植物画の後は、色をつけて描いたのは最初の一枚だけです。白黒は可能性のある組み合わせのような気がしています。明度差しかなく、点の密度で加減するしかないですが、物の奥行き、遠近、空の高さも白黒で表現できるように思います。色をつけると、色でごまかせるので、デッサンが甘くなる気もします。色彩は見て下さる方がご自分の感性でつけていただければと思っています。画面から色彩が感じられないとすれば、それは作者の力量不足だろうと思っています」
かず−点と線による描法は変わらないのですか?

「点と線で描くのは最初からで、山下清の貼り絵を見たのがきっかけでした。大学を卒業するとき、医学部は卒論がなく、一科目でも落としたら卒業できませんが、中に厳しい先生がいるので、学生たちで試験対策委員会をつくりました。僕も入っていたのですが、過去問を調べ、模範解答を作って印刷する。今のように簡単ではなく、面倒な作業で、一人抜け、二人抜けして、自分一人になってしまいました。試験日程は委員会で決めていたので、僕が『勝手に日程を決める』と宣言して、早めに日程を組みました。普通は卒業直前まで試験があるのですが、早く組んで、3月始めには終わりました。後は遊ぼうと思い、一番仲良くしていた山形県河北町出身の聖路加国際病院の細谷亮太君と、東北労災病院の佐藤克巳君と三人で車で遊びに行きました。仙台から新潟に行って、日本海を行けるところまで行こうと。それで福井に行ってぼろぼろの旅館に泊まったとき、玄関正面に山下清の大きな貼り絵が飾ってありました。『こういう絵だったら描けるかも』と思い、山下清を模写し始めました」

会田−描いているうちに熟練するものだと思いますが、タッチは変わりましたか?
「タッチが変わったのは、ドイツに行ってからです。研修医から東北大に戻った後、外国に留学したいと思いました。麻酔科はその頃、留学ルートがなかったので、六、七カ所に自分を働かせてくれと手紙を出しました。アメリカやカナダ、当時の西ドイツなどです。たまたま、一番最初に返事が帰ってきたのが西ドイツでした。レーバインという小児外科の権威の先生のところに出したのですが、僕が小児麻酔をやっていて、レーバインの主宰する雑誌に論文を書いたこともあったので、相手も分かって返事をくれたのだろうと思います。現在は秋田にいらっしゃる小児外科の先生の後押しがあったのも大きかった。全部の返事を見てみると、西ドイツは政府が研修費を出してくれ、一番良い条件でした。
 ただ、ドイツ語は医学部で必修でしたが、すっからかんでした。短期間ドイツに行っていた医師に聞いたところ、『英語だけで十分、大丈夫だ』と言われて、まあ大丈夫だろうとだまされて行くことにしました。文学部にドイツ人のドイツ語の先生がいたので、自分のドイツ語を見てもらったのですが、その先生に『わざわざ向こうに行くのだったら、生活しなければだめだ』と言われ、西ドイツに行って最初は、政府が設置しているドイツ語スクール「ゲーテ・インスティテュート」に4ヶ月行くことにしました。ミュンヘンからザルツブルクの途中にあるキムゼー湖畔にある町のスクールを選びました。大都市は日本人が多くいるので、日本語を使ったらダメだなと思い、なるべく日本人がいないところを探したことと、南のはじっこにいれば、アルプスが近くてスキーができるのではと思いました(笑)。プログラムがのんびりしていて、火曜、木曜は午前中だけだし、ひまな時間を自分のしたいことに使おうと思いました。車を買って走って、中世の城などに行きました。写真を撮ったり、絵を描きながら、スキーをしました。


エーゲストルフ。魔女が集うワルプルギスの夜の伝説の舞台とされる丘陵地帯のハルツの端にあり、ハイデの花が咲く町で、ドイツでは珍しく木の教会が残る。
 語学の勉強は学校以外ではしなかったので、留学に来ていた日本人には『ドイツ語を話せるようにならないぞ』と言われましたが、自分は言い訳も含めて『世の中に漕ぎ出していって勉強するんだ』と言い返していました。日本人は群れたがると見られていたので、日本人が一人で遊び歩いているのは珍しいらしく、ドイツ人から『本当に日本人か?』と、よく話しかけられました。実際、日常会話は3ヶ月で大体できるようになりました。
 絵も、時間がいくらでもあったことが大きいですね。一番長くいたのはハノーファーの医科大でしたが、そこで仕事を始めてからも時間がありました。基本的にフレックスで、あちらの医師免許を取って一部診療もしましたが、大学職員ではなくて、政府から研究費が送られてくる政府職員の立場に近く、自由度が高かったのです。平日でも午後3時半ごろには仕事が終わって、その後に絵を描こうと思えば、時間がいくらでもある。完全に週休二日で、年休も年に8週間ありました。一年目は遊んでいたら途中でお金がなくなったので、5週間しか休まなかったら、ついていた小児循環器科の教授に『なぜ、休みを使い切らないんだ』と聞かれました。それで、『いや、ちょっと資金不足で』と話すと、足りなくなったらお金を貸すから休めと言われ、二年目は完全に休みました(笑)。せかせかせず、有り余った時間の中で、タッチがみるみる変わりました」

会田−個展を始めたいきさつは?
「1994年に透析治療の仕事でC型肝炎をもらってしまい、あっという間に劇症になりかけました。透析の患者さんはウイルスの感染率が、平均より20倍ぐらい高いです。患者さんが過去に輸血をしていることと、免疫力が低下しているのが原因です。僕は事故でC型に感染し、自分で見ていても『死ぬな』という状態になりました。黙って死にたくないと思い、研修医でいた虎ノ門病院の肝臓の担当部長が同僚だったので、電話をかけたところ、当時インターフェロンを使い始めたころで、『どうせなら、やるだけのことをやってみよう』と、インターフェロンの治療を受けました。通常使う量の十倍ぐらいの薬を一年間ぐらい使いました。助かる確率は3、4%と言われていたのですが、『確率って分からないな』ということを学びました。0・1%といった関門もあったのですが、うまいことくぐりぬけました。
 ただ、インターフェロンの最大の副作用はうつ状態になることです。自分も『本当にどうして』というぐらい、元気がなくなりました。一年ぐらい、何もしたいという元気が出なかった。高校時代からの友人で、陶芸家の岩井純さんと、岩井さんを介して友人になった陶芸家の橋本昌彦さんの二人が、僕が絵を描いていることを知っているので、『何かさせないと、元気がないままになるのではないか?』と心配してくれ、突然、『会場を借りてきたから、個展を開いてね』と言ってきました。『とても、やる元気が出ない』と言っても、『でも、借りてあるから』と。それで仕方なくやりました(笑)。結局、あれが転機になりました。僕にとって大きかったのは、もちろん、案内を出して来てくれたお客様が多かったと思いますが、会場が人通りの多い道路沿いに面していて、バス待ちの通行客など見知らぬ方も見に来て下さいました。描いた本人も考えていなかったようなことを感想で言ってくれたのです。こけし職人や型絵染めの方など、丁寧に物づくりをしている人の視点は違っていましたね。『こういうことを考えて描いたのか?』と言われ、自分が思っていたこととは全然違いがあったりしました。人に見てもらうのって、面白いなと思いました。
 それでも、単発だと思って、自分でもう一回やろうという気分ではなかったです。しかし、見に来てくれた中に長銀(当時)の方がいて、最初の会場は3日間だったので、『終わったら、うちのロビーに飾りませんか』と言ってくれて、そのまま移って2週間ぐらい開いていました。何となくそこから年一回の恒例になりました。大学同期の細谷君は俳句をつくる人で、俳人協会の新人賞にノミネートされたこともあるのですが、細谷君の俳句と合わせると雰囲気が変わって面白いなと、二人展を仙台、東京で二回開きました」

会田−僕自身が見た個展は、郷愁シリーズとして、平和を意識した旧東西ドイツの国境沿いの風景を描いた作品で、メッセージ性を感じました。
「もともと、日本の山の風景と、ヨーロッパの建物などの風景と大きく二つに分かれています。日本の風景については、登山などをしていて人間が環境に滅茶苦茶をしていることが分かり、危機感を感じていたので、自分が見たことがメッセージとして伝わるように工夫していました。

 ヨーロッパは最初は特にメッセージ性はなく、好きなものを描いていました。郷愁というテーマでやって、シリーズにして、『私の住んだ町』『アルプスの南と北』などとサブテーマを決めてやっていました。6回目に『境界線のあったころ』というテーマを考えましたが、テーマを決めた後に、郵政民営化問題の総選挙がありました。もっとバランス感覚があると思っていたのですが、信じられないような答えが出て、あからさまに憲法改訂や軍隊の問題が語られるようになった。『過去の歴史に何も学ばないのか』と言われて仕方ないのではという気がしました。政治性のあるものは、あれが初めてでした。ドイツから日本を見ると、リベラルな人たちは『世界の憲法の中で一番素晴らしいのは日本の憲法だ』と言います。その理由は交戦権を放棄しているからですね」


ワインハウゼン

会田−旧西ドイツにいた時、平和についてはどんなことを感じましたか?
「非常に感じましたね。もともと政治的なことは大して考えない、のほほんとした方でしたが、ドイツに行って4カ月の時、季節外れの大雪が降って大停電になりました。寒いし、暗い、いつ電気が通るか分からない状態でしたが、ドイツ人は誰も文句を言っていた形跡がありませんでした。下宿先のおばあちゃんに『なぜ、みんな文句を言わないのか』と聞いたら、『戦争よりましだ』と言われました。そのセリフは後でも再々聞きました。実際に境界線があって、西に向いて大砲が並んでいて、いつ弾が飛んでくるか分からない。地下にシェルターをつくっている人も多かったです。80年代前半のその頃でも、西ドイツ内で『一体いつまで謝り続けているんだ』という大きな声はありました。首相や大統領がナチスのユダヤ人虐殺のことで、ポーランドに行って謝り、イスラエルに行って謝る。その議論に一言でけりをつけたのが、ヴァイツゼッカー大統領です。日本では終戦記念日とあいまいな言い方をしますが、ドイツでは敗戦記念日と言います。ヴァイツゼッカーは40周年の敗戦記念日のスピーチで『過去を直視しないものは、未来にも盲目となる』と言いました。その言葉にドイツ中がぴたっと静まった。『今いい加減なことをしていたら、ナチスが犯した失敗を繰り返すことになる』との思いが裏側に込められている言葉ですが、みんなが受け入れました。その点、ドイツ人はフェアだと思います。日本では現在のところも、未来にわたっても、このところを克服できないだろうという絶望感を感じています。
 ベルリンは東側に良いオペラがあって、ペーター・シュライヤーなどそうそうたるメンバーが日常的に出ていました。何度も東側に行って、チェックポイントで怪しまれて逮捕されそうになったこともあります。印刷物の持ち込みが禁止されているのに、車の中にミュンヘンのスポーツ店のカタログがあったのですね。本当はパスポートのビザの回数だと思います。一年間に40回程も行っていましたから。その境界線で、東から西に越境しようとする人が撃たれた現場を目撃したことがあります。境界線は鉄条網が三重になっていて、東側は最初の鉄条網を越えると、地雷原になっていました。チェックポイントで車で待っていたら、男が一人、西側に逃げようとした。うまく地雷原を通り抜けて、真ん中の鉄条網を上ろうとしたとき、東側の兵士が狙撃し始めて、男性は鉄条網を半分ぐらい上った所で弾に当たって殺されました。一週間後に行ったときにも、死体が放置されていました。鳥がたかっていて悲惨な光景でした。


エアフルト
ハノーファーの大家さんは、シュレジアに住んでいて、敗戦でシュレジアからドイツに体一つで逃げてきた人でした。シュレジアはポーランド領だったのをドイツが奪って、ドイツ人が移民し、敗戦でポーランド領に戻った地域です。大家さんも逃げてくる途中で、二人の息子のうち一人がポーランド人につかまって殺されました。そうした話しはしょっちゅう聞かされました。
 自分は戦後生まれ、戦争を知らない世代と言われれば、その通りですが、境界線で分断されていたドイツでの三年間で、戦争がどんなに悲惨なものなのか、身をもって分かりました」
会田−植物から始まって、山の絵などを描くようになりました。医師として人を助ける仕事をされていて、ともに生命ということに関係すると思います。日本の風景画には環境のメッセージを込めたとのことですが、環境問題を大切に思うのはなぜ?
「衝撃を受けたのが蔵王の稜線でした。蔵王稜線は大学に入った年に初めて行ったのですが、30年近く後ですね、子どもが自分で歩けるようになった90、91年ごろに、無雪期としては久しぶりに行きました。南蔵王に芝草平という大規模な高層湿原があります。初夏に行ったので、自分の頭の中では、素晴らしいお花畑が広がっているはずでした。それが『本当に同じ場所か』と思うほど、花も少なくなり、荒れていました。あの素晴らしかった高層湿原がたった30年で、ただの草原になってしまった。エコーラインから多くの人が入ってきて、あちこちでシートを広げていました。それまで自然保護にタッチしていませんでしたが、『なぜ、湿原がこんなになるまで立ち入り制限をしなかったのか』と思いました。行政がエコーラインをつくるときに、環境への影響を無視した責任は大きいと思います。私たち自身も、ある程度の知識を持った人間の立場から、何も発信しなかった責任を免れられないと思いました。それで、日本の絵で個展をするときに環境へのメッセージを出すようにしました。
 植物や昆虫を採集する人たちは『人が採ったぐらいで、チョウは全滅しない。環境破壊の方が影響が大きい』と言いますが、東日本に生息していたヒメギフチョウは70−72年ごろ、関東で全滅しました。数が少なくなっていたところに、採集が人為的に息の根を止めた。採集が決定的な影響を与えることがあります。それ以前に採集が何の必要があるのか、考えなければならないと思います。学術的な要素はごく一部で、おおかたは狩猟的な楽しみであったりします。子どもの情操教育を言う人もいますが、人の命の大切さを分からせるために、『二、三人殺してみればよい』というわけに行かないでしょう。
 自分なりに、ちょっとした自然保護をしたいと思っています。15年ほど前から、七ツ森に残っているヒメギフチョウの卵を人工飼育して、森に戻しています。遺伝子情報の劣化を避けるために、飼育は当年一代限り、必ずとり出してきた場所に戻しています。ヒメギフチョウは、学名登録された時のタイプ標本が仙台産だったのです。この辺はどこにでもいたはずですが、どんどん姿を消しました。放置していたら、すぐ全滅してしまう。それを黙って見ていられません。人が手を貸さないと駄目な状態です。自然界では卵から親に生き延びるのは3、4%ですが、人工飼育だと90%以上にかえせる。サナギを、環境には少し多めにオーバーフローさせるようにして森に返しています。ただ、森の環境を維持するのが大きな問題です」
夜の七ツ森

 会田−戦争は生命を破壊するもので、平和と環境問題は臼井さんの中で共通していると感じます。
「生きているものの命を大切にしない、粗末に扱う考え方は同じですね。環境に関しては、地球上で人間が一番偉いと思っているパターナリズムの克服が大きな問題だと思います。人間さえ都合が良ければ、何をしても許されるわけではなく、他の生命とシェアしている場所が地球です。人の命が大事だということは、人以外の命も同じように大事だということ。むやみやたらに環境を壊して人間のテリトリーを増やすことは、賢いやり方だとは思いません。この三十数年、普通に分布していたチョウが絶滅危惧種になるなど環境破壊が進みました。過去に目をつぶっていると、同じ過ちを繰り返します。日本の軍部が行ったことは相当の愚行だと思いますが、歴史に目を向けなければいけないのは、環境も平和も同じです。意図したわけではないですが、東西ドイツの統一と、絵を描いて個展を開くようになっていくのと時代も重なり、自然にそうなってきたと思います」


七ツ森のサクラ
会田−嫌いと言っていた美術でしたが、描くようになって今はどうですか?
「始めてみたら、必ずしも嫌いではなかったですね。自分の生き方に影響を与えてくれた人の一人で、研修医で虎ノ門病院にいたとき、スタンフォードの小児科教授が講演に来ました。その方は『20世紀のアメリカ文学』という題で講演しました。マンスフィールドやルイスなどの話しをしていました。自分もシンクレア・ルイスが好きだったので、質問の時間になったとき、『小児科の専門医が外国に来て、自国の文学史を語るのはどういう意味があるのですか』と聞きました。すると、『君たちがこれからやっていく仕事は、仕事、仕事と突っ込んでいくと長続きしない。長くやるには、どうやって楽しく生きるか。自分の仕事と関係ない所で楽しみを見つけるべきだ』と話してくれました。自分では都合良くとらえて、言い訳して遊んでいるわけですが(笑)」

会田−今後は?
「今は細谷君の実家の山形にある細谷醫院に週に5日から6日行っています。細谷君のお父さんが元気がなくなられてから、山形に行っていまして。お父さんはお金のない人は無料で診療するような昔ながらの医者です。もともと患者数が多い診療所で、閉鎖したら700人の患者さんの行きどころがなくなってしまう。『そんなの知らない』とは言えませんでした。山形と行ったり来たりしていますので、最近はあまり時間がなくなってしまいました。でも、個展を実際に開くのは折衝にかなりのパワーが必要で、一旦やめたらもう二度とできないだろうと思いますので、年に何とか一回はオリジナルの絵で、と今もしがみついています。約20年前から年賀状は、その年の干支に何かの関係がある植物を、描・彫・刷すべてを一人でつくる手刷り木版画にしています。これがもう少しで24枚、干支が二周りしますので、とりあえずそこまで、あと3年ぐらいは個展を続けたいと思っています」


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