| NIYONIYO Vol25(2007年春号) |
| ベトナムの風に吹かれて |
| 猪狩正男さん |
聞き手 会田正宣 ちなつ
☆この記事では猪狩さんの好意で、猪狩さんの写真4点を掲載しています。 |
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会田−ベトナムとの縁を教えてください。
「僕はベトナムで生まれ、父和正の実家の福島県三春町に移り住んで日本で育ちました。家の中では母がベトナム語を話し、ベトナム料理をつくってくれました。風景は日本、天井が高くて柱が黒く、蔵があってという家でしたが、父は仕事で忙しいし、中はそのような感じ。心の情景として、ベトナムの風が吹いていました。ベトナム、日本といった意識は特になく、自然にそうでした。
小学校に入って2、3年生のころ、小さな町だから、学校の子どもが『ベトナム人』といじめる。でも、そのころのいじめは今の陰湿ないじめと違って、『ベトナム人、元気か?』といった感覚です。その頃はベトナムを誇りに思っているわけでもないですが、からかわれたことが悔しくて、怒って、よくけんかしました。あぜ道でけんかして倒れて、田んぼに落ちたり(笑)。自分も逆の立場だったら、『ベトナム人』といじめていたかも知れませんね。父は厳しい人で、けんかするなら『負けてはいけない。負けるなら、するな』という人でした。
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【いがりまさおさん】
1957年、ベトナム生まれ。ベトナム名潘世望(ファン・テーモン)。2歳のときから、父和正さんの帰国により、日本で育つ。東京写真専門学校卒。1981年に初めてベトナムの地を踏み、以来、ベトナムの写真を撮り続けている。宮城県芸術協会会員
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父は特に自分のルーツを教えようとしなかった。ベトナムのスピリッツを教え込まれたわけではない。子どものころは別に、ベトナムを知らずに育ちました。ただ、学校でリンゴの皮をむいたときの体験があります。ベトナム人は刃を外側に向けて皮をむきます。日本は人を傷つけないようにと、自分の方に刃を向けますよね。それで、リンゴの皮をむいていたら、先生に『何をしている』と、びんたされました。私はなぜ怒られたのか分かりませんでした。かすかに、ベトナムが頭をよぎった体験ですね。
中学、高校と進んで、そのころは安保闘争、学生運動が盛んで、ベトナムの米戦の最中でした。ビートルズやピース、反米、反戦の中で、ベトナムが歴史に出ている。私がベトナムに関して初めて見た映像が、南ベトナムのサイゴンの大統領官邸に、北ベトナム軍の戦車が突入するシーンでした。南北に分断されていたベトナムが統一される歴史的な映像、歴史的な瞬間だった。衝撃を受けました。そして、『ベトナムって、自分が生まれた国なんだよな』と、ルーツを具体的に意識し始めました。そういえば、米国との戦争が始まってから、小さい頃はベトナムから手紙が来ていたのに、来なくなったなと気づきました。父はテレビを見ながら、『あの中におれの生徒がいるんだ』とつぶやきました。『ちょっと深いことがあるな』と思って、初めて父母にベトナムのことを聞き、父が話し始めてくれました。でも、深いことは話さなかったです。父は終戦のとき、日本に帰国する人に、「今さらに何をかいわん遅桜 故郷の風に散るぞ嬉しき」と詩を託して、『父に渡してくれて』と託しました。『自分は日本に帰れない』と覚悟を決めていたので。ようやく、まとまった話をしたのが、年老いてからで、最後だからと思ったのでしょうね。父は三春、その後仙台に移って歯科医を開業し、1981年に亡くなりました」
会田−お父さんとベトナムの深い縁を詳しく聞かせていただけますか?
「父は日本歯科大を卒業してすぐ、戦争に行かなければならなくなりました。仙台の陸軍士官学校に幹部候補生で入隊し、南方に派遣されました。陸軍少尉でした。戦争末期で、フィリピンに向かって出港し、ガタルカナルやインドネシア、シンガポール、ビルマなどに赴きました。ビルマではインパール作戦が有名ですが、インパールと並んで重要な断作戦に従事しました。英国がビルマから中国・雲南省へ、蒋介石政権に物資を送るルートを断つ作戦です。父はこの作戦で左足に弾を受けて負傷しました。その後、カンボジア、ラオスを経てベトナムに入りました。
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| 1945年3月9日、陸軍記念日を期して、フランス領インドシナのフランス軍に一斉攻撃を行う明号作戦が行われました。父は海岸一体を守る警備隊長を務めていました。アメリカの連合艦隊が来るとすれば、海からだろうからということで、海岸警備は重要な任務だったのです。作戦で小高い丘にあった小屋を包囲し、投降を呼びかけると、フランス軍が撃ってきましたが、包囲して降伏させ、負傷者は軍医部に移しました。終戦が決まって、ビエンホワという所にあった日本軍司令部に父が呼ばれました。作戦中の件が終戦間際のことだったので、連合軍とこじれるとまずいということで、何か責任を取る形をつくらなければならないといった話があったようです。父は隊に戻ってきて、下士官に司令部での話を打ち明けて、『自分が日本軍を離隊する』ということで責任を取ることにして、離隊しました。 |
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【ベトナム戦争とドイ・モイ】
フランス領インドシナの中の植民地だったベトナムは、ベトナム共産党による解放勢力が1954年にフランスとディエンビエンフーの戦いで勝利し、54年にジュネーブ協定を締結し、事実上独立。ただ、冷戦の中でアメリカが南部に親米政権を樹立し、50年代末から本格的にベトナム戦争が始まった。64年にアメリカは共産党政権の北部ベトナムへの爆撃(北爆)を開始。枯葉剤の散布などを行い、甚大な被害を引き起こした。69年1月、人民軍側のテト(旧正月)攻勢で戦争は大きな転換点を迎え、73年にベトナム和平協定が結ばれ、アメリカ軍地上部隊が撤兵を開始。75年、南部が完全に解放され、独立と南北統一が実現した。その後、86年からドイ・モイ(ベトナム語で刷新の意味)政策が取られ、経済開放などが進められている。
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すると、翌日夕、父が人民街で飯を食べているところに、ベトナム人民軍の工作員が現れて、父に協力を求めました。人民軍では軍隊経験者が乏しかったので、父に軍事訓練指導をさせようとしたのです。それで、人民軍に行くことになりました。それにしても、父が離隊した情報を人民軍がすぐキャッチし、ハノイの指導部に伝わり、わずか一日でハノイから指令が来た。穴を掘ってベトナムの南北を通した、いわゆるホーチミンルートを使っての連絡ですが、とにかく早い。父は米国のベトナム戦争中、『どっちが勝つのではない。アメリカは手を焼いて退散するだろう』と話していました。ハノイに大きな橋がありますが、アメリカが空爆で橋を爆破しても、翌日にはきれいに戻っている。ベトナム人民が一致して独立する、国を統一するという士気が高かった。ゲリラのスピリットがあったんです。
父が離隊した後の隊では、父と同郷の加茂徳治中尉がいました。加茂さんは父の離隊には何か背景があると思い、自分も離隊したのですが、加茂さんの情報も人民軍が把握し、加茂さんにも協力を求めました。人民軍のボーゲンサップ将軍の指揮で、クァンガーイに陸軍士官学校がつくられました。父と加茂さんは、陸軍士官学校で再会し、人民軍に鉄砲の撃ち方、ゲリラ戦などを座学と実践で指導しました。ベトナムで初めての軍事訓練は、外国人の、それも日本人によるものでした。教官は4人、父、加茂さん、中原光信さん(故人)、谷本喜久男さん(故人)です。人民軍の中枢を教えるのがすべて日本人。将軍はイデオロギーに関係なく、『勝たなければならない。独立を果たさなければならない』というわけです。ゲリラ教育では、鉄砲は相手に向けなくても、上に向けて銃声を上げるだけで、24時間3日間包囲する。相手の精神状況を追い詰めていくわけです。そうした教育をして、士官が8期生ぐらいまで育ってきて、ベトナム人が教官になった。
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その後、父は特別命令で、お茶で有名なタイグェンという町から奥に入った山中のボーチャインという地区、秘密の山奥で、歩兵操典の編纂作業に当たりました。軍事教科書の編纂で、ベトナム人にも秘密にされました。地区は人知れない安全な町で、毎日朝3、4時まで編纂をしていたそうです。母と知り合ったのは、このときでした。母の親族がタイウェンに茶畑を持っていて、母たちが疎開していたのです。父は軍の部下に食事などの買出しをさせていたが、あるとき母に頼んだことがあった。母は渡されたお金で食料を買い込んで、父に料理をつくりました。それが縁ですね。
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父の次の仕事は歯科医の教育で、軍医部で医学を教えました。そして、ベトナムとフランスの戦争で、ディエンビエンフーの戦いでベトナムが勝ち、事実上、東南アジアの国として初めて植民地支配から独立して、戦争が一段落すると、父たちはフリーになりました。『新ベトナム人(ムォーイ・ヴィエット)』とされました。父はナムデンという母の実家が近い町に歯科診療所を開業しました。銀行もないところで、お金はたまるが買いたいものもない(笑)。金の使い道がないので、コンデンスミルクをトラック一台分買って、町の人々に配るといった生活をしていました。
フランスとの戦争が終わって、1954年に第一回の日本への帰国が許可されました。ただ、ベトナム人の妻や子どもの帰国は許されなかった。そのとき、加茂さんや他の人は帰国したが、父は『母や子どもを残して帰れない』とベトナムに残りました。加茂さんからは『日本の土をいつ踏めるか分からない。一回帰ってから、奥さんたちを連れ戻しにくれば』と勧められたそうですが、父は帰国しませんでした。加茂さんは日本ベトナム友好協会の会員になって、毎年ベトナムに来るようになって、父に日本の状況を伝えたりしました。中原さんも日越貿易協会の関係でベトナムに来て、父と会っていました。 |
1959年の第二次帰国で、妻や子どもの帯同も許されたので、父も『これなら』と日本に帰国しました。最後の引き揚げ船である興安丸に乗って、ハイフォンから芝浦に帰国しました。芝浦についたとき、僕の名前がベトナム名だったので、『日本名で上陸しろ』と命令があり、船の中で名前が正男に決まりました。僕が3歳のときです。ベトナム名はテーモン、漢字で書くと世望で、世界を望むような人間になってほしいとの意味が込められていました。帰国時に妹が生まれたばかりでしたが、南シナ海を船で渡るのは難しいということで、周りで引き取りたいという人がいたので、妹は引き取られてベトナムに残りました。
その後、僕が生まれ育った近所の人で、僕たちの面倒を見てくれていた、当時は少年だったハノイ大学の化学の教授がいて、ドイモイになってから学会で日本に来ました。その人が飛行機に乗っているとき、隣り合ったのが東北大の学生で、『日本名で猪狩さんという人を知らないか』と聞いたそうです。学生さんが調べてくれて、私に連絡をくれ、教授と東北大で会いました。僕が妹のイェンに会いたいと話したら、ベトナムに帰ったら、妹に伝えると言いました」 |

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会田−妹さんと再会できたのですか?
「1987年に、母とベトナムに行きました。教授と日越貿易協会の人が来て、『実は妹さんがハノイに来ている』とを伝えてくれました。まだドイモイが始まったばかりだから、他に誰にも分からないように、明日夜に教授の家で会わせてくれる段取りをつけてくれていました。みんなで話し合ったとき、母は『会わない』と言った。母は娘を置いていくことに決めたのだ、という思いだったと思います。私は『みんなが動いてくれた。ここまで来て、会うべきだ』と言い、意見が分かれました。母は『翌日まで答えを待って欲しい』と言い、翌朝、再会することを決めました。ホテルでなるべくベトナムらしくない土産を買って。
そして、初めて妹と再会しました。妹は一枚の写真を持ってきました。生まれて間もないころの写真、かごに入った赤ちゃんのときの写真でした。妹はそれまで、母が日本に行ったことを知らずに育ちました。小さい頃の写真で、残っているものはその一枚。母を知らなかったけど、母との接点だった。感動しました。一枚の写真が何も言わずに、すべてを物語っている。会ってすぐ抱き合うとか、そんなことはありません。何も言わなくても原点に戻り、今自分がどう考えているのか、写真に集結している。一枚の写真に歴史があります。普通は会えないのが運命的に会えて、自分に兄がいて、知らない父の存在があって…。それから毎年、会うようになりました。母も次に会いに行ったときは、ラジカセなどを買って行きました。面会は決まったホテル、キューバの援助で建てられたホテルでしか許されませんでしたが、ドイモイが進むにつれて、面会時間が15分から25分、40分などと広がっていきました」
会田−ベトナムの写真もたくさん撮影されていると思います。
「自分がベトナムに初めて行ったのは1981年で、その後何度もベトナムに行きました。ドイモイが始まったころの1980年代は、ホーチミン廟でフラッシュをたいたら、フィルムを取り上げられそうになったり、軍人に分からないようにと思ってシャッターを押したら大変なことになったり、いろいろでした。
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ルーツの地で写真展をやりたいと思って、91年に開きました。ハノイのギャラリーで、小さくても良いから自分の足跡を残したいと思って準備していました。すると、当局が情報をキャッチして、『ベトナムの芸術協会の建物で開く』と、既に企画が進められていた。自分は有名なカメラマンでもないのに、と思ったのですが。 写真展が始まって、連日にぎわっていたら、突然人がいなくなったと思うと、ボーゲンサップ将軍が来てくれました。父はベトナム名でファンライといいますが、『ファンライの息子に会いたい』と。一つ一つ写真を見て、山の中で水牛と子どもが写っている写真などを見ていました。将軍は『写真は大事だ。戦争には写真が必要だ』と言っていました。私は写真をプレゼントしました。 |
マレーシア大使が来て、私の写真が素晴らしいから買いたいというので、『自分のルーツのところで写真展を開きたかっただけで、そういうつもりじゃない』と言ったら、『ちゃんと値段をつけなさい』としかられました。それで写真をあげたら、大使館に来るように言われ、大使館で食事に招かれました。
写真展の3年後にベトナムから手紙が来て、父のベトナムでの功績を称えるために、戦勝1級勲章及び革命功労2級勲章を贈る。ついてはハノイで授与式を行うので、来て欲しいとのことでした。ハノイに行って勲章をいただいたとき、パーティーに妹も呼ばれていたのがとても嬉しかった。ベトナムと米国の戦争が起きる前は、日本人の血が流れている子どもの待遇は良かったのですが、米国と戦争になってから、日本は敵国・米国に協力しているということで、彼らはつらい思いをしたのです。良い仕事に就職できなかったり。自分は豊かな日本で育った。妹は知らずに育ってきたとはいえ、そんな時代を生きていた。二つの戦争を乗り越えて、『新しいベトナムがあるんだ』と思いました。今まで、父が人民軍にかかわったことがタブーだったのが、ベトナム側からオープンにしてくれた。ドイモイは経済開放が先でしたが、これで社会の開放も進むことを感じました。ベトナム全土がそんな意識を持っているんだと。また、96年にはクァンガーイの陸軍士官学校の創立50周年記念式典ということで、加茂さん、中原さん、谷本さんと私の4人が招かれ、一緒に行きました。その時、サイゴンの大統領官邸突入の作戦を指揮したり、サイゴン空港を包囲した軍幹部なども来ていて、みな父たちが教えた士官でした」
会田−ベトナム戦争の傷跡はどうですか?
「気になっていました。町中にトーチカがあったり、バナナやゴムの木の陰に戦車が置いてあったりしましたからね。ベトドクちゃんの写真も撮りました。二人が分離したときにはお見舞いに行きました。ドクちゃんにはよく会いました。悩んでいた時期もあったけど、今は立派になりました。枯葉剤の被害に遭ったのはベトドクちゃんだけではないけど、世界に訴える力は強かったですね」
会田−猪狩さんが写真を始めたきっかけは何ですか?
「中学生のときに写真を始めました。近くの神社や仏閣を撮って、歴史を調べたりするのが好きだった。写真が面白いのは、シャッターを押すと、自分が感動した夕暮れが映る。きれいな花を撮ったり。山や風景を見たとき、心象風景を残したいと写真一枚を撮っていく。ベトナムへの思いはあって、行きたいけど、行くことができないと思っていました。
新潟の大学に入ってから父が亡くなった後、自分がやりたいことをやろうと思って、東京の写真専門学校に入りました。蓬野日出男という写真協会のボスについて、給料2万円で始めました。でも忙しくて金を使うひまもなかった。ボスが友人の有名人とマージャンをしている最中に、タバコを買いに行かされたり、丁稚奉公ですね(笑)。食べていくにはメディアに入るか、商業写真で飯を食いながらライフワークを撮り続けるかしかないので、商業写真で母体をつくって、自分のルーツを撮っていければ幸せだなと思いました」会田−ライフワークで写真を撮るときと、仕事で撮るときとの違いは?
「仕事は『ねばならない』。例えば、建築現場の施工写真は、広く撮って見せたいけど、広角レンズを使っても、ゆがんじゃいけない。お客さんの要望があって、方程式に基づいてやらなければならない。
ベトナムに行くのは豊かな時間で、有名な観光地などを回って写真を撮りたいとは思わない。そんな余裕はなくて、時間があったら、カフェでコーヒーを飲みながら、ベトナムの風を感じていたい。自分のイメージに入った心象風景のためにしか、写真を撮りません。地球の歩き方の担当者が最初にベトナムのガイドをつくるとき、『ベトナムの写真がないか』と僕のところに来ましたが、あまりガイドブック向きに使える写真はなかった。4刷ぐらいまでは使っていたけど。観光地は僕は撮っても自分が感動しなくて、僕がやりたいことではない。商売は考えていない。そういう意識がないんですね。
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| ベトナムに初めて行ったときに、シルクのカーテンの写真を撮りました。父はカフェに行って夕暮れを見たり、きれいなアオザイの女性を見ながらコーヒーを飲む。アジアでパンを主食にするのはベトナムだけで、フランス文化の中だけど、そんな風にしてくつろいでいる。父が話してくれたのがシルクのカーテンで、思い出の中のイメージがよみがえり、シャッターを押した写真です。あれがなければ自分のベトナムではない。ベトナムに行って初めて、ベトナムに出会った写真です。初めて行ったときはプロペラ機で暑くて、滑走路もコンクリートでなくて水牛がいたり、機内でバナナをもらったりしました」 |
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会田−カメラって、猪狩さんにとって何でしょう?
「僕の言葉です。自分は音楽家でも文学者でもない。文学者ならペンと言葉を使うでしょうが、僕が表現できる手段はカメラです。僕は自分が感じたベトナムを撮って、僕の写真からベトナムを感じてもらえる。『あなたが感じたベトナムって、そうなんだな』と感じてもらえるのは嬉しいです」
木村−私は祖母が好きで、昔の話をしてくれる経験が好きなのですが、祖母の話を聞いていると、祖母の風景を連想させるような懐かしい風を感じます。よみがえらせるような思い、気配が感じられるような感じです。
「それって、人間にとって、とても大事。おばあちゃんがやっていたこと、形にあるものでないけど、気持ち、ひととき、今その世界にいること…。待っていて撮ったというのではなく、僕の心の中で一瞬、そういう風景に出会うときがある。それを撮っています。上手下手の技術でも、感性の良さといった才能でもない。僕の中にある思いを感じ取る。
僕はベトナムでへその緒が切られました。自然に自分の心にあるところ。切っても切れない地です。イデオロギーや政治の考え方など表に出てくる表現を超えて、形としてみていなくて、感じるもの。ただ好きだ、というのでもない。自然にベトナムがある。考える前にベトナムがあって、風のままに感じる。証言や報道といったことに至る前に、自分が感じた情報、風景をいっぱい撮るのが精一杯。風が吹くままに、という感じです。
ベトナムは故郷でもない、でも自分は外国人というわけでもない。一人の自分でいる。一人で街角の小さな店に入って、コーヒーを飲みながら、ゆっくりと過ごす。しみじみと自分のルーツと立場を感じる。その時間は言葉にならない、あふれるものがある。妹に会ったり、友達に会うのも嬉しいが、一日黙っていて、ハノイでコーヒーを飲むのは幸せです。1+1=2といったように答えにならない、何とも言えない。思い出と歴史がある、そのような感じですかね。風のままにとしか言いいようがないんです」
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