NIYONIYO  ダンス 手を取り合って

インタビューを終えて

 高校のころ、ボランティアとして、知的障害者の施設で数日間過ごしたときのことを思い出しました。動作の力を加減できなかったり、返答に時間がかかったりするものの、感情を余すところなく伝える姿や、物事への集中力が印象的でした。最初は意思疎通に戸惑いましたが、一緒に過ごすうちに、気持ちのいいコミュニケーションをする人たちだと気付きました。
 実際の公演はまだ見たことがないのですが、定行さんが「感じたことがそのまま体に出る」と評価する障害者のダンスは、施設で触れた障害者の表情や身振りと共通の長所があるのだろうと思います。障害のない人のほうが踊るのを恥ずかしがって「大変」というのも、納得できる気がします。
 定行さんは公演について「障害者だからという拍手はいらない」と言い切る一方、障害者の芸術を趣味からプロの活動に発展させるには「プロデュースにサポートが必要」と指摘しました。相手を過剰に特別扱いするのでも、突き放すのでもない。双方の得手不得手を認識し、必要な場面で手を貸す姿勢は、障害のある人とない人が共に力を発揮するために、どの分野でも大切だと、定行さんのお話を伺って改めて思いました。
【みずほ】
東京で生まれ育ち、現在は赴任した仙台での暮らしを満喫中。
好きなことは、食べることと自転車に乗ること。
学生時代に取り組んでいたスペイン語とバイオリンはお休み中。

 みやぎダンスの「アスタリスク」を見たとき、衝撃を覚えた。友人が舞台に関係していることもあって見に行ったのだが、見る前は「障害者が踊るのだから、まあ一生懸命に頑張っているダンスだろう」とたかをくくっていた、というのが正直なところだった。特に僕にとっては、身体表現は伝わるものとよく分からないものの差が激しいということもあった。作品を見たとき、シンプルに力強さを感じた。作品のテーマがバリアフリー、他者との共存といった意味の分かりやすいテーマだと、自分の中で腑に落ちている部分も大きかったとは思うが。言葉足らずだが、ともあれ単純に「良かった」のだ。
 インタビューの中で、印象に残っている言葉の一つは「アートは誰にでも平等に開かれているはずのもの」ということ。考えてみれば「当然のことだよな」と思う。アクセスの問題をさて置けば(それが大きい問題であるとしても)、誰もが自由に感じ、受け取れる、また創造を楽しむことができるはずのものだ。

 マチスの絵画「ダンス」を思い出す。輪になって踊る人々は赤、バックは緑という二色のシンプルな絵だ。浅学なので個人的な印象での物言いだが、緑は大地をイメージさせる。シンプル極まりない色彩と構図のうちに、踊るということが人間にとって何なのか、原初の姿を感じた。喜びや悲しみ、祈りなどさまざまな思いを、体いっぱいに表現すること。であれば、誰もが踊りたい瞬間があるではないか。それぞれに制約や苦悩を抱えながらも、自分を解き放って表現したいと思う時があるではないか。
 全身という場合、それは五体満足の体でも、五体不満足の体でもない。今与えられた肉体のすべてのことを言っている。五体満足な自分に「そんなことをお前が言えるのか」と問われれば、「踊りのために体があるのではない。体を通して踊りが現れるのだ」と言おう。僕が気になるのは、その表現が全身全霊のものであるかどうか、心を揺さぶらせてくれるかどうか、だけだ。
 みやぎダンスには、単純に頑張ってほしいと思う。単純に良い作品をつくってほしい。

【会田正宣】
学生時代、環境問題を研究するサークル「なちゅれ」を主宰。楽器や空手など四方八方手を出すが、身につかないことばかり。気の多いB型。今は中国語に取り組む。アイルランドのロックグループ「U2」ファン。記者。横浜出身。

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