| NIYONIYO Vol23(2006年秋号) |
| 出会った そのときに |
| 海南友子さん |
聞き手 会田正宣 |
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−旧日本軍が中国に遺棄した毒ガス兵器による問題を取材した映画「にがい涙の大地から」が高い評価を受けました。撮影のきっかけから教えてください。
「実は偶然の出会いでした。2003年春、友人5人で中国に旅行しました。中国語通訳を勉強している人や、イラクのピースウォークで知り合った人など、みんな日中関係や東アジアの問題を普通より知っている友達で、南京とハルピンに行きました。ハルピンの食堂で会ったのが、映画に出てくるリュウミンです。彼女は若くてかわいい子なのに、表情がとても暗くて、明るいところが全くなく、話しかけても全然話してくれませんでした。それで私はむかついて、ますます話しかける、みたいな(苦笑)。すると、お父さんが1995年に遺棄兵器の爆発で亡くなったことを話してくれました。私はびっくりしました。『戦争って、60年前に終わったんじゃなかったの?』とショックでした。知らなかった自分も恥ずかしかった。『戦争が原因で、いまだに新しい被害者が出ているなんて…』と。
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【かなともこさん】
NHKのディレクターとして7年勤務後、2000年に独立。インドネシアの元慰安婦を取材した「マルディエム 彼女の人生に起きたこと」を01年に制作。中国に日本軍が遺棄した毒ガス兵器のため、今も被害を受けている中国人たちを取材した「にがい涙の大地から」を04年に発表。05年、黒田清日本ジャーナリスト会議新人賞受賞。共著に「ドキュメンタリーの力」
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| それで、リュウミンのお母さんを訪ねて、話しを聞かせてもらいました。約4時間泣かれまして、それが映画をつくる決定打になりました。お父さんが亡くなったのはリュウミンが高校3年生、弟さんは中学2年生で、その時に二人の未来は奪われてしまった。リュウミンに『楽しいことは何かある?』と聞いたら、『考えたこともない』と言っていました。毒ガス被害者への損害賠償を求めた裁判で、一審の東京地裁で原告側が勝訴しましたが、国は控訴しました。車の中でリュウミンが『認める勇気がないんだ』と泣きました。その通りだと思います。 |
| 私は戦争と直接は関係がない世代だけど、自分が関係ないとは思えませんでした。自分で何かしたい、何かできることはないかと思って、一人で撮影を始めました。リュウミンと出会って、『やるしかない』と思いました。過去の話しだったらやっていないと思いますが、今も被害者が出ている現在進行形の問題だったことが一番大きいと思います。他の仕事の予定を半分ぐらいキャンセルして、一年かけて中国と行き来して、約60人の被害者に取材しました。全員の心には入れないので、作品は焦点をしぼったのですが。重い話を聞いて暗い気持ちになるし、自分に何ができるか悩みましたし、撮影しながら『やめて帰りたい』と思ったこともありましたが、日本がやったことに誠実に答えたいと思い返しました」 |

映画「にがい涙の大地」から
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−特に、中国でも評判を呼んだと聞きます。
「現地で取材中から、私を取材しに来る中国の記者がいました。私は『やめて下さい』と言ったのですが、日本人が被害者に遭って取材しているというのがニュースだったようで。中国側の取材は約100社に上り、東京のオフィスまで撮影に来たクルーもありました。ゴールデンタイムの番組で特集が組まれ、作品を買ってくれて、数回放映してくれました。遺棄兵器問題は今も事故が多発しています。ここ10年は経済発展が進み、開発で土地が掘り返されるなどしていて兵器が出てきて、工事現場で若い作業員などが被害に遭っています。マスタードは今でも威力を持っていて、手足など触ったところはまんじゅうのように腫れたり、体液が流れる。免疫が衰えたり、生殖能力が落ちたり…。毒ガスはいったん浴びると完治しないのです。また触ってから腫れの症状が出るまでに4、5時間あるので、その間に被害が拡大したり…。
本当に事故は頻発していて、中国に行くたびにニュースでやっています。中国では本当に関心が高い問題で、日本との意識のギャップを感じます。だから、『こういうことを追いかけている日本人がいる』ということが中国人記者に伝わったのだと思います。原爆をアメリカ人が撮ってくれたら、日本人として嬉しいと思う。それと似ていると思います。また、『よく撮影させてくれたな』とも思いますね。いわば敵国の人間が撮影しているのに。言葉があまり出来なくて、素人っぽさが良かったのかも知れませんが。
日本人も、みんなが靖国神社参拝に賛成しているわけではない。若い人が互いに学ぶための格好のテーマになって、日中関係改善の話し合いのベースができるのに少しでも役に立てたら、やっていることに意味があると思います」
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【旧日本軍の毒ガス遺棄兵器問題】
旧日本軍は条約で化学兵器が禁止された1925年以降も、陸軍・関東軍化学部(満州第516部隊)で化学兵器開発を進めた。満州のほか、国内では広島県・大久野島などで化学兵器が製造された。日中戦争で中国に遺棄された毒ガス兵器は、日本側は約70万発、中国側は約200万発と推定している。建設現場などでの遺棄兵器の爆発事故が相次いだことから、1990年から問題の解決について議論が始まるようになった。日本が1995年、中国が97年にそれぞれ、化学兵器禁止条約に批准。条約に基づいて日本が遺棄兵器を回収、処理することになり、作業が始まっているが、2007年度までに処理するとの当初の目標は大幅にずれ込んでいる。
中国人被害者が日本国を相手に損害賠償を求めた訴訟は2003年9月、東京地裁で、国の不作為を違法とする判決を出し、国が控訴した。
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−映画で、毒ガスを製造していた側の広島県・大久野島の取材が入っていたのも良かったと思いました。
「毒ガスをつくった人、遺棄した人…加害者側の取材もしたいと思っていて、話をしてくれる方に会うことができました。毒ガス製造工場は国内5ヶ所にありましたが、島ごと工場だったのが大久野島です。行く前は『どんな人が毒ガスをつくったのか』と、怒りに似た感情を持っていました。ただ、実際に話しを聞いてみると、加害者だが、被害者の側面もあると思いました。工場では当時約6000人が働いていましたが、貧しくて中学に進学できないから、小学校を卒業して毒ガス工場に就職したという人が多くいました。先生から『お金をもらって化学の勉強ができる』と就職に誘われたり。島で見聞きしたことは家族にも話してはいけないと、口止めされていました。工場の作業員も、ガスマスクのすき間から毒ガスが入ってきて体調を崩しました。戦争末期に毒ガス兵器開発を隠すため、工場の解体が行われましたが、その作業に当たった人々の多くは戦後5年ぐらいで亡くなっています。自分もその時代に生まれていたら、どうだったか…。『戦争って他人事でないな』と思いました。 |
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島はきれいで、キャンプ場やテニスコートがある、のんびりした所でした。島に小さな博物館があって、中国での現在の遺棄兵器被害問題がちゃんと示されていました。イラン・イラク戦争の劣化ウラン弾の被害などと一緒に。日本で加害のことを言うと、とてもうるさいですが、公立なのに『よくやっているな』と思います。島の住民自身が被害者だったから、そこまでできるのでしょうね。
映画製作のことが新聞記事になった後、毒ガス兵器を遺棄した元兵士のおじいちゃんから連絡をいただきました。作品は一応完成した後でしたが、証言があるかないかは大きい。作品に顔を出せないので、顔を隠してインタビューを取りました。中国にも『一緒に行きませんか』とアプローチしていました。おじいちゃんは最初は断っていましたが、『いつ死ぬか分からない』と気が変わって、同行することになりました。おじいちゃんにとって初めての海外旅行ですし、不安そうでしたが、現地に着いたら杖をつきながら、がんがん歩き出しました。そして、遺棄した場所が分かったのですが、そこには、6、7歳のころに事故に遭った被害者が住んでいました。おじいさんは『本当にすみません』と言いました。中国人はおじいちゃんに優しく接してくれて、ハルピンの副市長を訪問したときは、副市長がおじいちゃんに手を差し出しました。おじいちゃんは『こんな国の人に、一体、自分は何ということをしたのだろう』と話していました」
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−自主上映で各地に行っていますが、上映会の広がりは?
「2005年の一年間で250回以上、上映会を開いていただきました。重くて厳しいテーマなのに、よく人が見にきてくれるなあと思います。アンケートの回収率も良いですし。連鎖が続いて、次の上映会がすぐ決まることも。面白い出会いは、薬害エイズ訴訟の元原告で、今長野にいらっしゃる川田龍平さんです。龍平さんの方から声をかけていただきました。薬害エイズの被害は、細菌兵器を開発していた731部隊出身のメンバーが創設したミドリ十字によって生み出された。だから、『戦争で裁かれなかった人たちが行ったことで、僕と関係がある問題です』と言ってくださって、早々に長野で上映会を開いていただきました」 |

涙を流すリウ・ミンさん
(毒ガス訴訟で、国が控訴した際の記者会見、映画より) |
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−フリーになったのはなぜですか?
「会社で7年働き、最低限のことはできるようになったところで、人生一回切りですし、30歳前にやめようと思いました。転勤が多くて、自分の人生をマネジメントできないストレスがありました。フリーになって、自分のやりたいテーマができないかと思いました。
でも、いきなり最初からフリーでやれるとは思っていませんでした。大学のときにNPOに足を突っ込んでいたので、とりあえず取材でなくても、サポート活動、現場に近い所に行きたいと思っていました。そこで、撮影という自分の専門性も生かせればと。
学生時代は開発や環境、国際協力関係のNGOに関係していて、インドで井戸を掘ったりしていました。普通に旅行するより、地元に入っていけるのが面白かったですね。最初はヨーロッパに旅行していましたが、香港に行って『面白いな』と思いました。日本と似ているところ、違うところがあって。それでアジアにはまって、女子大なのに留年して一年放浪していました。アジアでは北朝鮮、ネパール、チベットなど、行っていない所を挙げた方が早いです」
−やりたいテーマの中心に、アジアがある? 「アジアへの思いはずっとありました。戦争、環境と、3つがリンクしたような内容が一番のテーマですね。優先順位として、まず戦争がありました。子供のころから、父が沖縄やヒロシマ、ナガサキのこと、強制連行のことなど、戦争について分かりやすく話してくれて、頭のどこかに残っていました。だから、同年代の一般的な人より、関心は強かったと思います。学生時代に行ったアジアの先々で、よく戦争のことを言われました。知らないことも多くて、『そんなことがあったんだ…』と思って、旅から帰って本を読んで勉強したり。昔の問題でなく、補償が終わっていなくて積み残している問題もあります。ずっと戦争のことは頭にありました。
会社をやめてからの方が、取材相手との距離は縮まったと思います。NHKでというより、個人でというと分かってもらえたり、機材が違って、ハンディカメラ一つなので、撮られる側の意識も薄れますし」
−フリーになって最初の作品が、インドネシアの元慰安婦を撮った作品「マルディエム」でした。 「『慰安婦』問題はショックでした。中学生のとき、先生が『あったけど、なかったことにされている』と言ったのが、『一体、どういう意味なんだろう?』と思いました。
マルディエム、主人公のおばあちゃんは背筋がぴんとして、とても素敵な人で、この人の人生に何が起こったのか…と。約半年撮影し、編集に半年かかった作品です。マルディエムが50年ぶりに慰安所に行くシーンがあります。一緒に行ったのですが、取り乱して泣いたり、無気力な状態を見せたり…。心の傷を背負った場所に一緒に行けたことは、取材としてではなく、人間として勉強になりました。『慰安婦』問題は同じ女性として被害者であるという一方で、日本人だから加害者に連なっていて、複雑な思いがありました。 |

映画「マルディエム 彼女の人生に起きたこと」から
祈るマルディエムさん |
あのような取材は、勤めていたときは難しかった。長時間ロケができる番組は限られるし、ずっと一緒にいて、というのは色々な制約がありますからね。マルディエムのところには何回か通って、『そのような機会があったら声をかけていただければ』とアプローチしていました。マルディエムの現地支援者の中に日本人ボランティアがいて、丁寧に接していらっしゃるようでした。だから、入り口が入りやすかったことは私にとってラッキーでした。丸裸で飛び込んでいっても難しかったと思います。今では子供、孫のように接してくれます」
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−「マルディエム」と「にがい涙の大地から」の撮影で、違いはありましたか?
「『マルディエム』は性暴力の話で、自分も被害者側に立てる、自分の加害性を忘れられるときがあって、のめり込むのが簡単でした。取材中は『女として』という部分がありました。
一方、『にがい…』は加害者の立場しかない。昔、おじいちゃんの世代が爆弾を残していって、自分にも責任の一端がある。また被害者には子供もたくさんいます。取材中は何十倍もきつくて、毎日撮った映像をホテルに戻ってから、見たくなくても見なければいけないわけで、本当に辛かったです。もう一回やれと言われてもできませんね。雪の降る中、バスが倒れている田舎に行ったりして。精神的ストレスからトラウマになったこともありました」
−遺棄兵器問題はライフワークとして取り組むのですか?
「取材としては一旦終わりにしようと思っていますが、人としては関わり続けるつもりです。毒ガス兵器に関する情報を寄せてもらうホットラインには深くタッチしています。また被害者救済の基金がいくつかに分かれているので、それを統合した基金をつくる活動を進めています。被害者の健康診断や、今後新しい事故が発生したときの調査費用を出す基金をつくる予定です」
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※映画「にがい大地の涙から」と「マルディエム 彼女の人生に起きたこと」からの写真は、すべて海南友子監督から提供いただきました。誠にありがとうございました。
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