NIYONIYO Vol22(2005年夏号)
魯迅の後から
沈凱東さん 聞き手 (会田正宣 高塚美奈子 高橋理麻 飛田裕子 奈津野曽良) 

会田−日本に留学したいきさつは?また仙台を選んだのはどうしてですか?

「私は広州にある広東外語外貿大学附設外語学校で生物を教えていました。2002年10月に約3週間、日本を訪れ、東京、横浜、仙台に来ました。魯迅が留学した仙台は、中国人にはとても有名で、日本では東京に次いで知られています。みんな中学のとき、魯迅の『藤野先生』を読みます。魯迅の作品を読んだときは、仙台は小さくて寒い町という印象でしたが、来てみたら小さくなかったですね。仙台では東北大の階段教室、松島に行きました。
 日本に来る前は日本人はどんな人か、日本がどんな国か知らなかった。チベットに旅行に行ったとき、若い日本人に会いました。日本人はお金持ちと思っていたけど、その人たちは結構貧乏旅行でしたが。日本人に会ったのはその程度です。私の回りの友達はアメリカやオーストラリアに留学に行っていて、アメリカのことなどは友人たちから話を聞いていました。でも、日本のことは分からない。中国人も日本人も、同じ東アジア人だと思っています。習慣や考え方などが、どれだけ違うのか、なぜ違うのか知りたかった。新聞など伝聞でなく、自分で見ようと思いました。また英語はある程度できたので、新しい語学を勉強しようと思って、日本に留学することにしました。

【沈凱東さん】
中国湖南省常徳出身。華南師範大卒業。故郷常徳の中学校で生物を教えた後、広州の広東外語外貿大学附設外語学校で教師を務めた。2003年4月に日本・仙台に来日。2004年4月から東北大に入学。教育情報学を専攻し、インターネットの活用による教育効果の向上について研究している。



 私が最初に日本を訪れたとき、日本語が全然できませんでした。東京でディズニーランドに遊びに行ったとき、人に何か尋ねても、あまり聞いてくれませんでしたが、仙台では我慢強く聞いてくれ、筆談してもらったりして。仙台の人は東京より親切だと思いました。魯迅の縁があってのことだと思いますね。また私がいた広州はにぎやかで、東京もにぎやかです。仙台は勉強するのに良い環境だと思いました。
 この100年間で、中国人で日本に来た留学生で一番有名なのが魯迅です。孫文は日本に来たけど、留学生ではなかった。魯迅が学んだ所に行ってみようと思いました」

会田−日本に来る前、日本にどんなイメージを持っていましたか?日中の戦争についてなど。
「母の故郷は湖南省の湘郷という農村です。戦争は1937年に始まって、最初は人々は戦争のことはよく知らなかったが、1942、3年ごろ、母の故郷にも軍隊が来ました。母の母、おばあさんが40歳ぐらいのときでした。おばあさんは病気がちで、軍隊が来たとき、家族や近所の人々は『日本軍が来る』というので裏山に逃げましたが、おばあさんは逃げられなかった。軍隊がやってきて、『米やニワトリはどこだ?』と食料を出すように迫りました。うちは割と裕福な家だったので、『米はあそこです』と食料を出したので大丈夫でした。しかし、近所の貧しい家の人は食料がないので、『これはまずい』と逃げ出そうとしたところを、刀で切られて殺されました。おばあさんはそれを直接見ました。逃げた家族の中には当時14、5歳だった母がいて、それを後で聞きました

【魯迅、藤野先生、幻灯事件】

魯迅(1881−1936年)は浙江省紹興の科挙の名門に生まれたが、父の代で家が傾き、苦学して洋式学校に進学。医学を志して日本の東京に留学、1904年に仙台医学専門学校(現東北大医学部)に移った。そこで教師だったのが藤野厳九郎氏こと藤野先生。藤野先生は魯迅のノートを添削し、実直に魯迅の学業を支えようとした。
 魯迅は在籍中、ロシアのスパイを働いたと疑いをかけられ、日本軍につかまった中国人を処刑する映像を学校で見た。歓声を上げる日本人の同級生や、映像内で、処刑される中国人を中国人群衆が見て何も感じない様子に絶望感を抱いたのが「幻灯事件」で、魯迅の作品「藤野先生」に記されている。ただ、実際に幻灯事件があったかどうかは疑問との説がある。
 魯迅は日本での体験等から、医学から文学への転換を決意。1909年に中国に帰国し、教員を務めながら小説、文芸評論などを発表した。魯迅の生きた時代は、西欧列強による中国進出、孫文の中華民国樹立、軍閥政治による混乱、日本が満州に進出し、日中戦争が始まろうとしている時期だった。中国近代化の激動の時代に、魯迅は終生変らず、中国人民の啓蒙、意識改革を訴え、中国近代化の父とされる。代表作は「阿Q正伝」「狂人日記」など。



 私も小さいときに、母たちからその話を聞いていました。大学生のときは新聞で靖国神社参拝のニュースを見ました。私の故郷は常徳という町で、日本軍が細菌戦を行ったところです。年上の人は戦争を覚えています。中学生の同級生の家族に、細菌戦の被害者がいました。一、二度会ったことがあり、当時はよく知りませんでしたが、後で知りました。日本に損害賠償請求訴訟を起こした人も常徳にはいます。常徳では大きな会戦もあり、戦争の犠牲者の墓場がありますが、そこは家の近所だったので、小さい頃はよく遊びに行っていました。母たちはずっと戦争を覚えているので、私が日本に旅行に行くときはそれほどでもなかったですが、留学することには本当に心配していました。『日本は怖いところだから、大丈夫か』と。
 自分たちが学校で教育を受けたときは、反日教育はあまり盛んでなかった。反米のほうが強かった。5年ぐらい前から、反日感情が高くなりました。私は情報源が親たちの話や新聞だけで、自分が見たわけではない。日本の経済がなぜ発展しているのかにも興味がありましたし、自分の目で見てみようと思って日本に行こうと思いました」

沈さんたちが上演した魯迅の劇。魯迅のノートを藤野先生が添削する場面。(写真は下の一点とともに、沈さん提供)

会田−魯迅の「藤野先生」について、昔はどう思っていましたか。留学に来た今は、感じ方に変化がありますか?
「魯迅は昔は、少しだけ興味があったぐらいです。分かりにくかったので。藤野先生は中国で一番有名な日本人ですね。教科書で読むので、田舎の人も知っています。高校のとき、小林多喜二の名前を教えられる。あとは山口百恵、一休さんとか。一休さんはテレビで見ました。
 藤野先生を読んだとき、『本当に藤野先生のような日本人がいるのか?』と思いました。100年前の時代は、日中の関係が悪くなろうとしていて、清王朝も滅びる最後の時期で、中国が弱くなっていた時代です。今も親切な人はいるけど、あの時代に、日本人が中国人にあれだけ親切にできたのかと思いました。魯迅が藤野先生を覚えているのは、藤野先生がとても偉大だということと、同級生の他の日本人との違いがあったからだと思います。

 中国では魯迅の研究がたくさんされていますが、魯迅は神格化されています。中国人は幻灯事件を信じていますが、日本の研究では『本当にはなかったのでは?』と言われます。私は東北大に入学してから、魯迅の仙台留学100周年を記念する本の出版の編集に参加して、いろいろ資料を読みました。私も今は、本当に幻灯事件があったかどうか疑問だと思っています。でも、魯迅がなぜ医者をやめて、『中国人よ、目覚めよ』と思って文学に変わったのか。医者になれば、良い医者になったかも知れませんが、文学のほうが良かったと思います。100年前に留学した魯迅の気持ちが理解できると思います」
会田−国にいて内から見るのと、外から自分の国を見ることの違いですか?
「今、コンピューターで中国のニュースを知ることができます。炭鉱で何十人が死んだりといった悪いニュースを聞きますが、中国にいたときは、それが平常でした。日本では2、3人が死んでも大きなニュースになるけど、中国では10人、何十人単位。前は北部の地方での事件だったら、『北のほうの話』という感じでしたが、今は中国の事件だと思う。中国では『慮山が分からないのは、慮山にいるからだ』ということわざがあります」

会田−魯迅の劇をやってみようと思ったのは?
「仙台は他の町より中国人留学生に親切だと思う。それは魯迅が理由の一つで、仙台の人は魯迅に対して敬意を持っていると思います。今、いろいろな悪い事件があって、日本人は中国人に対して良くない印象を持っていると思うが、仙台は中国人に親切で、仙台の人に感謝の気持ちを持っています。だから、何かお返ししたいと思って、どんなことができるだろうと考えました。仙台の人は魯迅の名前は知っているが、魯迅がどんな人か知らない人も多い。魯迅の紹介の仕方をいろいろ考えた結果、劇をするのは大変で難しいけれど、最もインパクトが大きく、分かりやすいと思いました」
会田−演劇は前にもやったことがあったのですか?
「初めてです(笑)」

奈津野−最初は一人で動いたのですか?出演者や他の人の協力などはどうでしたか?
「2003年4月に留学して、1年目は言葉も生活も大変でしたが、チャンスがあれば、自分の国の文化を紹介したいと思っていました。東北大に入った2004年は、魯迅が仙台に留学して100周年の年。大学で魯迅関係の記念事業がありましたが、日本人主催で中国人は参加するだけの形だったので、自分で何かしたいと思いました。6月ごろから色々な人に話し、誘うようになりました。

 始めはたくさん問題がありました。最初、演劇部に行ったときは『ちょっと無理ではないか』ということでした。脚本はないし、ボランティアとは言え、必要なお金の問題もあった。演劇部も自分たちの公演で忙しい。しかし、演劇部の中の一人が協力すると言ってくれました。中国語の脚本は7月始めに完成し、8月末にようやく日本語の翻訳が終りました。8月末に第一回の顔合わせの練習があって、毎日のように練習して、本番が9月12、13日でした。最初は不安があったけど、だんだん協力してくれる人が増え、自信がつきました。一人ではできないことで、みなさんの協力のおかげです。中国のことわざでは『多くの人がたきぎを持ってくれば、火が大きくなる』と言います」
公演の準備をするメンバーたち

飛田−劇をやって目的は達成できましたか?やって良かったことは?
「大体達成できたと思います。お客さんは約250人来て、感想もたくさんいただきました。良かったのは、今は中国と日本の関係は悪いニュースが多いですが、その中で今回の演劇は良い影響を生むことができたと思います。中国語のホームページ、中国メディアのホームページなどにも今回の劇のことが載っているんです」

高塚−今後の計画はあるのですか?
「第2幕、第3幕、できれば第4幕も考えています。私は来年3月に卒業して中国に戻るつもりなので、来年3月に上演します。今回やった第1幕から通してやろうと思っています。第2幕は『もめごと』。魯迅が仙台で勉強していたとき、魯迅のテストの成績が良かったのは、藤野先生から問題を教えてもらったからだと、日本人学生が疑って、日本人学生から嫌がらせを受けるところです。第3幕は『惜別』で、魯迅が仙台を離れるところ。第4幕は、『この劇をやった出演者やお客さんが、10年後にはどうなっているか?』と想像して、再会する内容にしたいと思っています。100年前は戦争があった。今は戦争はないけれども、中日間にいろいろな問題がある。10年後はどうなっているか、もっと友好が深まっているのか」

飛田−色々と苦労したのに、また2回目をやろうと思っているのですか?
「一回目は時間があまりなかった。友達も少なかったです。今度は一年半の時間があり、経験もあるから大丈夫だと思います」

会田−日中友好については何が大事だと思いますか?「自分にとって、日本にいるチャンスはとても貴重です。日本にいるうちに日本人と中国人がもっと理解し合えるようにしたい。今、相互理解が少ない。理解が一番大切です。政治家が話すことはいつも変り、不信感がありますが、一般の人が言うことは信じられる。留学した経験を利用して、仙台の2年間でいろいろな人に会って、交流できました。交流が大切です。
 南京虐殺があったから、東京虐殺をしたいと思っている中国人がいるかも知れない。でも、日中には長い歴史があります。文化や習慣の違いがあるから、中国人は日本人から学べることもあるし、日本人が中国人から学べることもある。友好に共存することが、両方にとって良い。私は中国に戻ったら、教育関係の仕事を続けると思います。自分の学生たちに、日本のことを紹介したり、機会があったら留学等を勧めるなど日本との交流のチャンスを提供したい。また日本人が来るときは、中国人との交流の機会をつくったり。特に将来を担う若い人たちの交流が大切で、相互理解のために何かしたいと思っています」


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