NIYONIYO   国籍と民族のはざまで 〜心のおもむくまま

インタビューを終えて
 HEEJAと出会ったのは、1994年夏のことだった。その頃、私は日本の大学3年を休学して、ロンドン大のLSEというカレッジに留学することが決まっていた。新学期が始まるひと月前に、ロンドン大で秋から学び始める留学生のための英語コースが、「切り裂きジャック」の出たロンドンでも比較的治安の悪い移民の町であり、私たちは、カレッジに隣接して建てられた学生寮に半ば幽閉されながら、エッセイの書き方やプレゼンテーションのしかたといった実践的な英語を学んでいた。そして、イタリア人やトルコ人、チリ人、モザンビーク人の仲間とともに、同じクラスになったのが彼女だった。
 "My name is Heeja. I'm Korean."というから、てっきり韓国人だと思い、彼女がコテコテの大阪弁で話しかけてくれるまで、しばらくの間、懸命に英語で話し続けていたのを思い出す。もっとも、彼女は今でも韓国人であることに変わりはないのだけれど…。かくして、私は英語名の「Lee Heeja」と出会った。
 不思議なもので、一度「HEEJA」として出会うと、その後いくら日本語の読み方があると分かっても、「ひめこさん」とか「李さん」とか言うのは違和感があって、いまだに私は「HEEJA」と呼んでいる。もちろん、英語の世界で一緒だったから、年上のお姉様であるにもかかわらず、敬語も「です」「ます」もほとんど使ったことがない。
 言葉遣いは随分乱暴だったと思うが、二十歳そこそこだった私にとって、彼女はロンドンでの後見人というか、かなり若い母親のような存在だったと思う。事実、彼女に「あんたは我慢することを知らない。テレビを買わずに1年間我慢してみなさい。BBCニュースは、私の部屋にいつでも見に来ていいから」と言われ、素直に1年間我慢してみた。テレビのない生活は、後にも先にもあの時だけで、新鮮な感覚だった。
 もっとも、今回のインタビュー後に彼女に打ち明けると「私、そんなこと言ったっけ?」と彼女は覚えておらず、逆に私が全く覚えていない「寮の設備の悪いキッチンであんたがささっと作ってくれたパスタがおいしかったから、友達になったのかも」というライトな答えが返ってきて、今度は、私の調理姿など想像も付かない会田編集長をびっくりさせることとなった。
 ある夜、私が彼女の部屋に夜のBBCニュースを見に行った時のことだ。自然と話題が在日の話になって、激論になった。私なりに高校生の頃に在日問題について勉強し、論文も書いたという自負があった。だから、過去に自分の国の人たちがしたことと、自分が全く無関係だとは思えなかったし、国としての謝罪のあり方に問題があったとは感じていた。でも、納得がいかず、つらかったのは、これから先もずっと、嫌悪感や憎悪を抱き続ける関係でしかあり続けられないのか、ということだった。私はHEEJAのことがこんなに好きなのに、やっぱり嫌いなの?と思ったら、自然と責めるような口調で、声を張り上げながら訴えていたような気がする。
 その時は気づかなかったけれど、あの議論で私が感じた痛みの何十倍、何百倍の痛みを、彼女は受け入れつつ、私の青い主張も受け入れてくれたのではなかったか。いろいろ言い合った末、真夜中に彼女は「分かった。私はやっぱり日本人が嫌いだけれど、YURIEは好きだから」と言ってくれた。そういうものか、とあの時は、ちょっとうれしくもあり、ちょっと淋しくもあったのを思い出す。
 留学から戻って、彼女は大阪、イギリス、ボスニアと飛び回っていたし、私は東京で卒論を書いたり、その後は記者になって地方勤務があったりで、すれ違いが続いている。それでも、たまに連絡を取り合い、数年に一度は大阪や東京で再会するという関係が続いていた。距離は離れたけれども、今も彼女が私にとって人生の師であることに、変わりはない。
 今回、こうしてこれまで付き合ってきた人間を、インタビューして書く、ということに、私はなんとなく壁のようなものを感じていた。もちろん、HEEJAという一人の人間を、何らかの形で書き留めておきたい、という強い思いから、インタビューをお願いしたのだが、ちょっと越えなければならない敷居がある、という感じだった。改めて聞くという作業によって、友情が消えてなくなるわけではないだろうが、そうは言っても、ひとつ思い切りが必要な気がしていたのだ。だから、今回のインタビューにはわくわくした感覚とともに、ちょっとした緊張感を伴いながら、臨んだ。
 案ずるより生むが易しで、甚だ手前味噌ではあるが、インタビューは充実したものとなった。特に、私が聞かなかったこと、聞けないようなことを、他のメンバーがさらりと聞いてくれたことが、とても大きかったと思う。正直に言うと、これまで私は彼女の何を知っていたんだろう、と思うようなこともあった。やっぱり、いくら友人でも、子供のときの体験やご家族のことをあれこれ聞いていたわけではなかったから…。
 そして何よりも、私が「ああ、そうなんだ…」と思ったのは、彼女が「今はもう日本国籍を取ったほうが、私の場合、自然だと思う」と話した時だった。私はなんとなく、ロンドンで激論を交わした当時の彼女が、そのまま今ここにいる、と思っていたけれど、彼女は彼女で時を経て、変わってきている部分もあったということだ。10年前の彼女ならば、嫌いな日本人に自分がなるという選択肢はあり得なかったと思う。そうした彼女の中の変化は、何年かぶりに再会して、ちょっとお茶を飲んで、という繰り返しでは、分からなかったのではないか。
 インタビューの翌日、私たちは「出会って10周年」を記念して、箱根の温泉に泊まりに行った。大きくて、真っ白な富士山の見える露天風呂に浸かり、部屋でマッサージを堪能しながら、のんびりぼーっと過ごして、帰りは小田原で西と東に別れた。次の再会がいつになるかは分からないが、次回HEEJAに会うまで、私もしゃんと背筋を伸ばして生きていこう、と思った。
【豊田百合枝】
 バーボンと薩摩焼酎を愛する。ゴーヤのお浸しに泡盛も譲り難い。秋冬は欠かさず秩父宮ラグビー場に通い、ストレス発散。大学時代にロンドンで生活、IRAまたはIRAを装う爆破予告で、度々地下鉄の駅が閉鎖されるのを体験。その後、自分の通う大学近くでバスが爆破され、テロを初めて身近に感じる。東京都出身、記者。

  インタビュー後、リ・ヒジャさんから本を一冊いただいた。彼女が編集した、国際政治学者武者小路公秀氏の本である。開けるまで、国際政治に関する学問的な本かなと思っていた。が、中身は武者小路氏の半世紀のようなものだった。彼女はその本について、「ここ最近一年半の自分だ」と言った。それはどんな意味だったのか…と自分なりに思った。
 インタビューで、彼女は自分のアイデンティティをずっと考え続け、その延長で国際政治の学問の扉をたたいたことを話してくれた。日本人であることを自明≠ニし、何か違和感を感じる環境に生まれ育ったことのない自分には、やはり想像を超える世界ではある。
 武者小路氏のことを特に詳しく知っていたわけではないが、国際政治の学問に生きた人の生き方に、彼女が多大な関心を持って本の編集に取り組んだであろうこと…それを想像しながらページをめくった。武者小路氏がフランス人の血が入った混血であること、第3世界への関心から人権に敏感になり、NGOの運動を続けていること、何より学問を実践に生かそうと苦闘してきたこと…インタビュー後に有楽町の飲み屋で、彼女は武者小路氏への数度のインタビューを振り返りながら、「あっという間に時間が経って行った」と楽しそうに話していたが、今、その意味が少し理解できるような気もする。
 在日、韓国人、日本人、彼女にとってアイデンティティは、まさに肉体のレベルからの問題だろうが、その彼女が自分自身を含めた周りを、客観的に見る目として、国際政治学を得た。そして、今恐らく、その学問(学問そのものというより、学問から得たことだろうか)と自らの体との間を行き来している。そこには武者小路氏の生き方と、表面的でないところで共通するものがあるように思う。
 差別を考える上で、自分は一応二つに分けて考えている。まず制度、法的な問題は、合理的に考え、改善していくべきだ。もう一つだが、お互いのコミュニケーションというか、意識の問題…これは、やはりコミュニケーションを取り合う姿勢を、意識しなければならないと心がけるしかないのではないか…差別が、社会的な優劣などの条件のもとに作られた上下関係だとすると、それを同じ地平に立って、話し合う、聞く、という所から始めるしかないのではないか。
 会う前は、在日の人であり、自分自身が在日の人とじっくり話し合った経験もなかった中で、どんな出会いになるのか、どんなことを言われるのかと、不安感を持っていたことは正直に述べる。しかし、彼女が語る言葉には、教条的なことがなく、自ら歩んできた道の上に語られるときに放たれるみずみずしさがあった。自己が解放されるということは、それまでの自己が決してなくなることではなく、新たな光に照らされて、今までと違った輝きを放つ自己が見出されることではないだろうか。彼女にとって、国際政治という学問が、その光の一つだったとすれば、武者小路氏との出会いは、彼女にとって必然だったように思う。
 人が何々人であるか、という部分での国籍は、アイデンティティーにとって依然大きな問題だ。その上で、ちなみに言うと、インタビュー後に飲んだ有楽町の店は、無国籍料理の店だった。
【会田正宣】
学生時代、環境問題を研究するサークル「なちゅれ」を主宰。楽器や空手など四方八方手を出すが、身につかないことばかり。気の多いB型。今は中国語に取り組む。アイルランドのロックグループ「U2」ファン。記者。横浜出身。

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