| NIYONIYO 2004年春号 | ||||
| 国籍と民族のはざまで 〜心のおもむくまま〜 |
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| LEE HEEJA(李姫子)さん | 聞き手 豊田百合枝 勝本修三 会田正宣 |
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| 豊田−現地で、不安な思いをしたことはなかったんですか? 「あった、あった。96年の8月だったと思うんだけれど。アメリカ軍やイギリス軍による武器庫査察に、セルビア共和国軍が応じないということがあって、アメリカ軍が『爆弾落とすぞ』となったんです。その際に『外国のNGOは避難しなさい』と警告が出ていたんです。ここに爆弾落とすんだから、と。でも、私のところには情報が伝わってこなくて、気が付いたら、もう外国人はみんな逃げて、いなかったって時があって。 と言っても、地元の人は別にいつもと変わりない生活をしていたわけです。でも、『私どうしよう、私逃げられない』と思って不安になって。当時、事務所に電話がなかったので、電話局に行って、ザグレブの現地本部に電話し、週末の間、引き上げることになりました。ザグレブから迎えが来た時には、すでに情勢は落ち着いてきたんだけど。それで、月曜日に戻ってくる時に、なんか知らないけれど、突然、車の中で情緒不安定になってね、わっと泣いちゃったんよ。怖かったんです。週末もずっと興奮状態が続いていたのね。状況が落ち着いた反動もあったと思うんだけれど、一人で不安で、『もうどうしよう』とか思って、わあって泣いてしまった。 97年3月にも、もしかしたら戦闘状態になるかもしれない、って時があったけれど、あの時はもう落ち着いていました。いざとなったら、ここのみんなと一緒に逃げればいいんだ、と思ったの。でも、逃げる時にこのスーツケース持って逃げたら不謹慎だろうな、なんて思った(笑)。こんなん持って行ったら、人にちょっと迷惑掛ける。やっぱり、このボストンバッグしか持っていけないかな、と。その頃は、そんなことを考えられる余裕が持てるようになっていたんですね。ただ、いつでも飛び出せるように、ジャージ姿で寝ていました。結構ぐっすり寝てましたけれど。 |
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| 「国際関係論」を学び、アイデンティティを探る 会田−もともと国際関係論を学ばれていたということでしたが、きっかけは。 「それは、私が在日韓国・朝鮮人として生まれたからでしょうね。私が生まれたのが1956年。子供の頃、差別が一番露骨化し始めたんだと思うんです。私の前の世代は、一世で韓国、朝鮮半島生まれだし、もともと違うっていうのが、はっきりしているわけですよ。ところが、私たちみたいに、日本で生まれて、日本で教育を受けているのに、国籍が違うということでの差別は、非常に納得できないものがあった。韓国が故郷と言われたって、全然故郷っていう実感もないし、非常に中途半端で、心理的にそういうものを感じやすかった。だから、自殺者が出るのは、この二世って言われる世代からなんですよ。自分自身のアイデンティティに悩む。早い子では12歳で自殺した子がいるんです。あれは70年代でしたけれどね。 いろいろあったけれど、80年代前後からかな、韓国のソウルでオリンピックが開かれることになって、変わってきたんですよね。対日関係でも非常にはっきりした対応をするようになった。例えば、教科書問題や、政治家のいわゆる暴言に抗議したり。国際社会での国家の位置づけ、自分の所属する国家がどういう国家かで、自分たちの立場も非常に変わるんだな、と思ったら、やっぱり国際社会はどういう仕組みで動いているかっていうのが知りたいと思っていたんです。 ただ、私はOLをやっていて、非常に残業が多い職場だったので、なかなか勉強がしたくても、できなくて。仕事にもいろいろ疲れ果てていました」 豊田−大韓航空の… 「そう。大韓航空の発券カウンターにいたんですよね。大阪支店、市内事務所でした。それがある日、人事異動で京都行けと言われたんですよね。片道2時間。仕事で心身ともにぼろぼろになるまで働いていた私に、京都に行けとはいったいどういうことか、と思った時に、もうブチっと切れちゃったのね、私(笑)。自分の中でガラガラっと積み木が壊れるような感じがあって。12年近く働いていたけれど、すぐに辞表を出しました。これまで自分がやってきたことが崩れちゃったようなところがあった。もう何もする気が起こらなくて、無気力にさいなまれる日々でした。会社に爆弾を仕掛けてやりたいと思ったこともありました。でも、退職が一つのきっかけになって、留学することになったんです。 |
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| 日本名と本名の選択 勝本−差別というのは、結構、もうずっと昔から感じることはあったんですか? 「ええ、小学校の頃は露骨に『朝鮮人、朝鮮人』といじめられたから。帰れ、とか言われていたし」 会田−学校は普通の公立に通っていた? 「はい。小学校の時に友達が家に遊びに来るでしょ。当時、日本名を使っていたから、顔もこうだし、黙っていたら分からないんだけど、家に来た子は何か見つけて、『朝鮮人だ!』って分かっちゃって。私が聞いた感じでは、どうも言いふらしてたらしいのよ。それで、他の子が教えてくれたの。『あなた、あの子、あんたのこと、そういうふうに言ってるよ』って」 会田−日本名は。 「森本姫子。幼稚園や小学校では森本だったんですよ」 会田−自分の中に、日本名とか、韓国の本名があるっていうのに気づいたのは、いつごろですか?また、そこに違和感なんかを覚えたりしたことはあったんですか?それはいつごろですか? 「中学の頃ですね。中学に進学する時に、そこの中学は本名制だって言われたんです。大阪市生野区は全国で一番朝鮮人、韓国人が多いところで、中学校の生徒は4人に1人が韓国、朝鮮人だったの。それで、学校では本名制度を取ろう、と。日本語読みだったんですけれどね」 会田−本名は。 「李(LEE)。今でも覚えているんだけれど、小学校6年生の時に、先生がクラスの10人ぐらいに封筒を渡すわけです。家に帰って、ぱっと封筒を開けたら『姫子さんの本名を教えて下さい』って書いてあった。それで、もう一人の友達から電話がかかってきて『なんて書いてあった?』って。彼女も朝鮮人だったの。」 勝本−本名制度を取るというのは、学校の方針だったんですか? 「中学の先生に聞いたら、『やっぱり誇りを持って欲しいというようなことだ』と、言っていました。中学には名札があったんですよ。でもね、やっぱり小学校からみんな一緒に上がってくるでしょ。名札であの名前が書かれてるってことには、ちょっと抵抗感があった」 会田−本名が書かれているほうが、抵抗感があった? 「抵抗があった。つまり、それまで森本って言われていたのに、中学に入ったら急に「李」の名前になって。私は韓国、朝鮮人ですって、付けて歩いているようなもんだもの。小学校から来た友達は、今でも日本名で呼ぶ子はいますね。急に本名で呼べって言われても、やっぱ呼びづらいって。ま、それもそうだろうなと」 勝本−学校で本名制度を取りましょうっていう方針に対して、ご家族の反応というか、考え方はどうだったんですか? 「あまり何も言いませんでした。これって、私たちの中の共通することなんですが、韓国、朝鮮人は非常に職業にも制限があって、まずホワイトカラーが圧倒的に少ない。そうすると、不利な状況の中で家で工場をやったりしていて、子供のことなど省みずに仕事をしなきゃいけないので、結構、子供をほったらかしの家庭も多かったんですよね」 会田−李さん自身は、自分の生まれた環境とか、そのころ取っていた名前とかについて、どのように思っていたんですか? 「やはり、ある日差別され始めたときからすごく嫌だった。中学生の頃でしょうか。ものすごいコンプレックスで、『なぜ私は日本人の家に生まれなかったのかな』と思いました。 明らかに、友達の家の話と自分の家のことが違うってことが分かるわけですよね。小学生の頃、うちの家では、お膳で食事をしていたんだけれど、母は片ひざを立てて食べるんですよ。近所の日本人の子がそれを見ると不思議なわけで、『ここのおばちゃんてね、こんなふうにしてゴハン食べる』と、格好を真似したり。だから、日本人を基準として、日本人と違うということがすごく悪いことのような気がしていました」 会田−日本人への反発はありましたか?あるとしたら、成長してからなんでしょうけど。 「成長してからですね。学生時代はそこまで余裕も持てなかった。高校に行く時、中学でも本名を使っていたから、その流れで高校は「李」で行っちゃったんだけど、そしたら本名を名乗っているのは、1学年で私1人だけだったんです。私入れて本当は約10人いたらしいんよ。高校は本人の意思で選択できたのだけど、1年は私1人、2年に1人、3年に2人だったの」 豊田−結構、みんな迷いながら、どっちの名前にするか決めている? 「そう。やっぱり大阪の小学校は、今でも本名を名乗りなさいって言うらしいんです。『本名名乗りましょう運動』みたいなもの。ちっちゃいうちは、先生の言うことが絶対だから、聞く。でも、その子たちが中学、高校へ行くようになると、みんな日本名に戻す。今でも。決定的なのが、社会に出た時です。学校時代は、先生たちも守ってくれる。民族に誇りを持てとかなんとか言って。そうやってよいしょしてくれる間はいい。でも、社会に出れば決してそうではない。やっぱり世間の風というのは冷たいものだと。そこで一人で立ち向かっていける強さは、人間なかなか持てないから」 豊田−でも、会社に入っても、中学以降はずっと「李」で通していた? 「うん、ずっと」 豊田−おうちの人も「李」さんだったんですか? 「ううん、森本なの。両親が「森本」で、私と妹が「李」。弟は日本名を使ってる」 豊田−じゃあ、家の中でも… 「ばらばら。私の名前「姫子」を「ヒジャ」って読むってことは、1975年に大阪外国語大学のタイ語科に入学してから初めて分かったんです」 豊田−タイ語科にした意味は。 「意味は一応あって。高校時代から『自分たちは差別されている。でも、なんか欧米の人って差別されてないよな』って思ってたのね。で、アジア人は日本人に差別されるんだと思ってた時に、70年代当時、タイで不買運動など反日運動が一番盛んだったから、潜在的な自分の意識で『やれ、やれ!』っていうのがあったわけよ」 勝本−なんでタイで反日運動が盛んだったんですか? 「貿易摩擦が原因だったんです。経済侵略はいけないということです。田中角栄首相の時代で、不買運動とか盛んにやっていて、タイの学生運動のリーダーが、日本の新聞社からインタビューを受けて、『あなたは日本に何を求めるんだ?』て聞かれたら、『日本人にアジアに戻ってもらいたい』という発言をしたの。『おお、これだ』と思って、タイ語を目指すことにしたんです」 |
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| 豊田−お父さんとお母さんの出身は? 「韓国のチェジュ(済州)島から来ました。だから、私はイギリスに、サマーコースを入れると3回留学できたんだけど、今思うと自分自身、不思議なものがありましたね。自分の中で、自分が何人か分からない、というアイデンティティの問題は抱えたけれど、変な話、私がもし韓国に生まれていたら、アイデンティティで悩むことはなかった。でも、私の年代の韓国の経済力で、果たしてイギリスに私費留学ができたかというと、おそらくバツだったんじゃないかと思うんです。私は日本にいたから、イギリスに留学できる環境にあったと思った時に、人生において一体何が私にとって一番大事だったのか。やっぱり私の中で、イギリスに留学できたということは、非常に大きいものがあるし、人生の選択ができたというのが大きかったんです。 でもね、私が大学の頃に自殺した人がいました。山村さんという人で「わが命、燃え尽きるとも」という本を書いた人。彼は韓国人として生まれたけれど、親が日本国籍を取った。彼はそれが嫌で、自分は元に戻りたい、自分はどんなに貧しくとも韓国に生まれたかった、といって自殺してしまった。非常に激しい。 韓国に生まれたら、恐らく私は留学できなかった。日本にいたからできた。人生において、何が一番、私にとっては譲れないことだったのかということは考えちゃいました」 豊田−自分に初めてそういう折り合いをつけたってこと? 「そうやね。だから、2回目のイギリス留学から帰ってきた時に、開き直れるようになりました。別に私は韓国人だけれども、日本の影響を非常に受けている。その影響は絶対無視できない。だって、韓国じゃなくて、日本で生まれ育って、日本の食べ物が好きで、日本語をしゃべって。韓国語を覚える必要性もない。現実は、もう日本の影響を受けていることを無視できない。だから、それでもいいんじゃないかな、って。 1回目の留学の時は、まだやっぱりいろいろ差別されたっていうこともあって、日本が嫌だっていうのがあった。だけど、日本の影響を大きく受けていて、その影響を受けているものが嫌だっていうのは、自分を嫌いだって言ってるような気がして、これはちょっと嫌だった。 2回目にサセックスに留学した時は、もうこれが現実なんだと。自然な流れでいけば、日本国籍を取るほうが私の場合は自然だと思えるようになりました。私、韓国に本籍があるんだけれど、戸籍謄本ていうのがあるんですよ。よう取りに行かんもん(笑)。行っても、どこか分からない(笑)から取れない」 勝本−韓国に行かれたことはあるんですか。 「何回もあります。でも、私好きじゃないんです、韓国。キャラクター的に合わない(笑)。大韓航空の飛行機に乗って、隣りに本国の韓国人が横に来たら嫌ですね。変に人なつこいものだから、私が韓国人だと思ったら、いろいろ話しかけてくるのね。悪気はないんだけれど、結構立ち入ったことを聞くの。『あ、韓国人?日本に住んでるの?年はいくつ?結婚はしてるの?なぜ、結婚しないの??』余計なお世話でしょ(笑)。ソウルの町は人が多いから、ぶつかっても謝らないし」 勝本−韓国へは、どういう関係で…。 「仕事で行ったり、あとはソウルでちょっと降りて、というぐらい。大韓航空に勤務していたから、飛行機はただで乗れました。ただ、満席だったら降りなくちゃいけないから、とりあえずソウルで1泊して、次の日にまた飛行機に乗る。だから、ホテル周辺を歩いていただけだったんですけれど」 豊田−あんまりじっくり巡ったということはない? 「ソウルはそう。でも、プサンの南、チェジュ島は70年代後半、大学生の時に母方の親戚の家に泊まりました。すごいカルチャーショックで、もう二度と行きたくないと思った。だって、生活環境が全然違うんです。例えばね、おトイレがない家があるんです。 親戚の家に行って、『すみません、おトイレどこですか?』と日本語が分かる人に聞いたら、「あなた、大丈夫かなあ」って。行ったら、何も囲いがない。用を足す下に豚が歩いている。豚がそれを全部食べちゃうから。ショッキングだった。水道は家にあるわけでもないし」 "永住者"へのこだわり 豊田−でも、イギリスから帰ってきて、日本国籍を取るほうが自然だと思えるようになる前は、やっぱりそれでも自分は韓国人だ、と…。 「そう思ってた。やっぱり肩に力を入れて、私は韓国人なんだって。思わなきゃいけないっていうところがありました。 今は、日本国籍を取るのが自然だと思うけれど、日本の国籍取得制度は問題があるから、制度が今のままでは取りたくないんです。例えば、韓国、朝鮮人で、旧植民地出身者、戦前から住んでいる人の子供ということで、届けを出した人には無条件でということなら、取る。そうでないなら、取らない。イタリア人が日本に来て、5年間住んで、例えばその人が手続きをする。それと私たちが同じ土台に乗るいうのは、おかしいと思っているんです。私たち在日は、実際に日本人と同様に日本に住んでいる。でも制度的には日本人と同等でない。実態がかみ合っていないというギャップが、今私たちの状況にはあるんです」 会田−指紋押捺の体験は、どうですか。 「あ、もう、ずっとやりましたよ。私が永住者になる資格を取ったのが、法律が変わって、特別永住者ということになったんだけれど、それまでは私は3年にいっぺん、入管に行って、滞在許可を延長してたんです。本当は、取ろうと思えばすぐに永住資格が取れました。私の場合は紙一枚書けば、永住者っていうことになったんだけれど、『いいや、3年にいっぺん、ここに来よう』って思って行っていたんです。自分なりのポリシーがあって」 豊田−取ろうと思えば取れたのに、どうしてですか? 「取らなかったのは、要は私たちの存在っていうのは、非常に日本政府の公的地位において、故意にゆがめられた、きちっとした人権というのが守られない存在なんだ、と。日本で生まれ育っているのに、税金も納めているのに、法律的には3年にいっぺん来る、というのはおかしい。こういう事実は、残さないといけないんだと思ったんです。期日を1日でも超すと、私は超過滞在の人間になったんですよ。オーバーステイ。 年をとっても、3年にいっぺん行く。入管の担当者も『いまだにこんな人がいる』と思う。近所の子供が『おばちゃん、なんで3年にいっぺん行くの?』って聞く。そうしたら、『おばちゃんはね』って話をして、伝えていかなくてはいけないんだと。なんて思っていたら、一本化ということで特別永住者になって、『もう来なくていい』ってなっちゃって(笑)。 でも、ある時、入管の人に『アンケートに答えてもらえますか?』と声をかけられて、『なんで取らないんですか?』って聞かれました。アンケートに答えたお土産に、ボールペンもらいましたけれど(笑)」 人生観変えた東欧のことわざ 会田−留学先で折り合いが付いた時、っていうのは肩の力が抜けた感じだったんですか? 「この世の仕組みというものを自分なりに勉強して、『国籍とは、民族とは』についてきちんと整理して考えられるようになりました。結構、私たちの中で問題があるのは、民族イコール国籍と考えるわけです。日本国籍を取ったら、もう裏切り者になっちゃう。別に日本国籍を取っても、自分自身が育ってきた環境を変える必要はないわけで、紙の上のことだけのはず。そんなに深く考えなくてもいいのに、なぜか日本国籍を取ったら『民族を捨てた』とか『裏切った』とか。 私、今思うと不思議なんだけれど、大学時代はね、日本人と絶対結婚しちゃいけないと思ってたんですよ。そうしたら、ダメだと」 会田−純血じゃないと、と。 「そう。日本人と結婚したら、結婚式で着物を着なきゃいけなくなるとか。日本人と結婚しても、着物を着る必要はないし、自分自身、変わることってそうないと思うんです。だけど、当時は自分もそう思っていたし、両親たちもみんな思っていた。だから、お見合いがすごく盛んだったんですよ」 勝本−それはどうしてですか? 「日本人と結婚されたら困ると。だから、さっさとお見合いして。お見合いってのは、すごく大変なことで、百回お見合いしたって人もいるのよ」 勝本−百回!? 「聞くと、何十回ってお見合いしている人なんてザラだったの」 豊田−お見合い、してたわけですか? 「私はそんなにしなかった。数回しただけ(笑)」 豊田−つまりは、そうした民族=国籍という観念から、解き放たれたっていう感じなんですか? 「そうそう。勉強をちゃんとして、別に民族イコール国籍じゃないし、国際社会の仕組みをどう考えていくのか、って。 2回目のイギリス留学で、市民社会(=CIVIL SOCIETY)のことを勉強していた時に、たまたま見た論文で"LET ME BE, LEAVE ME ALONE, DON'T TRY TO TELL ME HOW TO LIVE"という言葉に出会いました。東ヨーロッパの古いことわざでした。私の訳で言えば『私は私、もうほっといてくれる?』っていうこと。私の生き方は私が決めるんだ。私に『こういう生き方をしなさい』なんて指南するのやめてちょうだいよ、と。『あ、これなんだ』と。私はひょっとして、この言葉に行き当たるために、こういう生き方をしたいために、勉強し始めたんじゃないか、と思ったんです。東ヨーロッパで共産主義がつぶれたのは、実は経済がどうこうじゃなくて、『共産党が指導して決めてあげます』ということに対し、自分のことは自分で決めたいんだ、となったからじゃないかと。 それが、CIVIL SOCIETYと関係する。つまり、自律ある世界。私はこの言葉に行き当たった時に、自分自身も解放できた。いろんなところで、自分がひとつに合わさった。私は随分、韓国人であることや、会社に自分自身を縛り付けていたんじゃないか、と。国家からの縛りいうのもある。だから自分自身でどうやって自律して生きていけるか。個人がどうやって、自分自身の力で生きるか。そういうことじゃないか。 それで最近は『ブランドなし』を目指そうとしているんです。何にもない私。例えば、名刺もない、肩書きもない。所属もない。それで、どこまで通ずる人間になれるか、というのを目指そうというふうに思って。友人の一人が笑って、『もともとブランドなんて、ないじゃない』って言うけれど、『何言ってるの、これを本物にするんじゃないの!』って応えてる(笑)。 H:結局、差別というのも、そういうことじゃないですか。本当のその人を見ないで、どこに住んでいたかとか、どこの出身だとか、そういうことでしか人を見られない。だから、自分自身を民族や国家から解放するっていうのは、なかなかできない。『解放する、解放する』と思って、解放できるものでもなくて。なんかそう思った時に、最近、本当に松田聖子のように我が儘な人が好きになったんです。あんなに世間で騒がれてても、白々しく、大きいタオルで、涙も出てないのに、涙をぬぐう真似ができる(笑)。あれはいいですよ」 国家と群集 会田−話が変わりますけれど、国際関係の勉強の専攻は。 「主テーマは、グローバリゼーションの中での、個人と国家の関係の変遷ということですね。変化もあるけれど、なかなか変わらない部分もある。とりわけ、一番国家と個人の関係が分かるのが、市民社会じゃないかと思っているんです。私は、今の時代は決してグローバリゼーションだけじゃなくて、インターナショナライゼーション、つまり本当の意味での国際化という要素もあると思っている。 だから、経済は非常にグローバル化が進んでいると思うんだけれど、例えば何か起こった時というのは、やっぱり国家と国家が出てきて、初めて交渉となる。国家を超えておらず、国益を重視している。拉致問題なんかもそうだし。そういう部分がまだ残っていて、一方で昔ほど国家、国家となっていない面もあって、国家自身がこう、変容していっている部分はあると思うんですよ。その辺を見極めたい。どの部分が変わって、どの部分が変わっていないか。 以前ほどは個人も国家にとらわれてないところもあるれど、じゃあ個人が自由に国家を移れるかって言ったら、決してそんなことはないですよね。難民になった時も、受け入れてもらえる人と受け入れてもらえない人がいるし、私がこの国籍を取りたいからって、自由に国籍を変えられるか、っていったら、そういう時代でもない。 クルド人たちが、どうして国家を持ちたいと思うか。特にパレスチナなんか、やはり独立したいわけです。国家を持ちたいのは、国家こそがまだ、自分たちの安全保障の拠りどころになっているから。パスポートがなければ、自由に行き来ができないわけじゃないですか、今の世界って。難民となったら、ビザを取るのは非常に大変だし。どこの国家に属するかで、その人の人生が決められてしまう、っていうのはまだ大きいと思うんです。 パレスチナも国家を持ったら、アラファトなどのファタハは多分、テロって言われなくなると思います。軍隊だと。パレスチナ軍になると思うのね。同じことを国家がやったら、国家に対してはテロと言わないわけでしょう。クルド人たちも国と言わないまでも、自治を持ちたいのは、自分たちの意思行使は、自分たちの国家を持つことで初めて可能になると思っているから。とすると、まだまだ、グローバリゼーションで国家が相対化されて、以前ほど意味を持たなくなっているとは、簡単には言えないと思うんです。まずはこの状況を、きちんと直視することは大事だと思います」 豊田−でも、それは、やっぱり国家にとらわれて、さっきの話じゃないですけれど、肩に力が入っているということと、つながっていく。本当の市民社会みたいなものになるまでには、まだ何段階も手前の状況なんじゃないですか。 「そうね。本当だったら、国家にとらわれないで、と思うけれど。 私たち在日の中でも、まだまだ民族=国籍というふうに、非常にとらわれている側面が強い。私は自分自身が勉強することで、決してとらわれる必要はないんだと思ったけれど、今の世界のあり方、現象を見たときに、めでたくもグローバリゼーションで国家が意味を持たなくなっているか、というと、やっぱりそういう言い方もできないな、とは思いました。 私は大韓民国のパスポートを持つことで、だいぶノービザで行ける国が多くなりました。一方で在日には朝鮮籍の人たちもいますが、朝鮮籍だと難民扱い、みたいな所があって。日本政府が発行する渡航証明が出ないと、どこかに行けないから、非常に申請が大変なんです。だから、とりあえず、韓国籍のパスポートでもありがたいと思っています。私、韓国政府に税金を納めた覚えがないんだけど(笑)。
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