NIYONIYO 2004年春号
国籍と民族のはざまで
       〜心のおもむくまま〜
LEE HEEJA(李姫子)さん 聞き手 豊田百合枝 勝本修三 会田正宣
LEE HEEJAさんの写真です セルビアでNGО活動に参加

豊田−セルビアでのNGО活動の目的、狙いなどについて、まず教えてください。
「1996年7月から97年6月まで、セルビア人共和国シポボという人口1万2000人ぐらいの町で、女性と子供の心の癒しというプロジェクトをしていました。AMDAという岡山の医療関係のNGOでプロジェクト調整員の募集がありまして、一方でAMDAはJEN=ジェンという、NGOの連合体に参加していました。私はAMDAから派遣される形でJENに行って、プロジェクトをしていたんです。
 95年12月に和平合意に達して、それから約半年後のことでした。徐々に情勢は落ち着いてきて、ぼちぼちとセルビア人が避難先から戻って来ていました。シポボはもともとセルビア人が多く住んでいて、何カ月間か、モスリム人とクロアチア人に占領されて、セルビア人は追い出されていた。難民もいたけれど、どちらかといえば、帰還避難民が多かったと思います。私が行った当時はほとんどがセルビア人で、少数ながらもクロアチア人やモスリム人もいたみたい。
 家が破壊された中でみんな住んでいました。お金がないから、直すこともできないで、冬は気温がマイナスになる。
 そんな状況の中で、プロジェクトで女性たちを集めてカウンセリングをしながら、編み物をしてもらいました。出来上がったセーターを着て、写真を撮ったり。編み物をしながら、みんなで悩みを共有しましょうという感じです。それと、小学生を主な対象にして、工作教室やお絵かき教室などをやりました。カウンセラーがついて、子供たちの気持ちを聞いたりしながら。子供たちが、何もすることがない上、行き場所もないから、とにかく一箇所に集めて、遊びがてら、何か活動しようということです」
【LEE HEEJAさん】
 大阪市生野区生まれの在日韓国人2世。大阪外国語大学タイ語科を卒業後、大韓航空に入社。大阪市内で地上職を10年以上勤めた後、同社を退社し、1993年、ロンドン大学のカレッジのひとつ、London School of Economics & Political Science(LSE)の夏季コース受講を機に留学を決意。95年LSEのディプロマ資格(国際関係論)、99年英サセックス大学修士号(国際関係論)を取得。96年から97年にかけてボスニアに渡り、NGО活動に参加。その後、部落解放・人権研究所で書籍編集に携わり、現在はフリー。

勝本−心の癒しというテーマは、HEEJAさんがもともと関心があったんですか。専門でやっていたとか。
「それはないんです。私は子供はもともと好きじゃない(笑)。私はイギリスで国際関係論を学んでいました。それで、国際政治がぶつかる現場っていうのを見たかったんですよ。そうしたら、たまたまユーゴスラビアってことだったから、これはうってつけの場所だと思って。人道援助が仕事だったけれど、それがやりたくて行ったというよりは、国際政治の現場に身を置きたかった。だから、行く時に『動機不純なんです』なんて言っていました(笑)。
 行った当初、私にとって楽しい仕事は、バニャルカ(セルビア人共和国の大都市)でUNHCRとかWHOの会議に出ることだったんですよ。UNHCRの会議っていうのは、NGOとか、軍関係者、国連関係者が出てきて、要は今、ボスニアの中でどういうプロジェクトをやっていて、どういうセキュリティ状況になっているか、情報を共有する場だったんですね。だから、NGOの側としては、今度あそこでNGOがこれを始めるんだ、だったら自分たちは別の地域でまた別のプロジェクトやろうか、とか。そこに行くと、国際政治の現場が実感できたんです」
旧ユーゴスラビアでのプロジェクトの写真です
JENでのプロジェクトの様子
豊田−現地で、不安な思いをしたことはなかったんですか?
「あった、あった。96年の8月だったと思うんだけれど。アメリカ軍やイギリス軍による武器庫査察に、セルビア共和国軍が応じないということがあって、アメリカ軍が『爆弾落とすぞ』となったんです。その際に『外国のNGOは避難しなさい』と警告が出ていたんです。ここに爆弾落とすんだから、と。でも、私のところには情報が伝わってこなくて、気が付いたら、もう外国人はみんな逃げて、いなかったって時があって。
 と言っても、地元の人は別にいつもと変わりない生活をしていたわけです。でも、『私どうしよう、私逃げられない』と思って不安になって。当時、事務所に電話がなかったので、電話局に行って、ザグレブの現地本部に電話し、週末の間、引き上げることになりました。ザグレブから迎えが来た時には、すでに情勢は落ち着いてきたんだけど。それで、月曜日に戻ってくる時に、なんか知らないけれど、突然、車の中で情緒不安定になってね、わっと泣いちゃったんよ。怖かったんです。週末もずっと興奮状態が続いていたのね。状況が落ち着いた反動もあったと思うんだけれど、一人で不安で、『もうどうしよう』とか思って、わあって泣いてしまった。
 97年3月にも、もしかしたら戦闘状態になるかもしれない、って時があったけれど、あの時はもう落ち着いていました。いざとなったら、ここのみんなと一緒に逃げればいいんだ、と思ったの。でも、逃げる時にこのスーツケース持って逃げたら不謹慎だろうな、なんて思った(笑)。こんなん持って行ったら、人にちょっと迷惑掛ける。やっぱり、このボストンバッグしか持っていけないかな、と。その頃は、そんなことを考えられる余裕が持てるようになっていたんですね。ただ、いつでも飛び出せるように、ジャージ姿で寝ていました。結構ぐっすり寝てましたけれど。
旧ユーゴスラビアのシポボの町です
旧ユーゴスラビラ・シポボの町遠景
みんなと一緒に逃げればいい。それで『外国人がなんか一人まじっとるぞ』と噂になれば、またそのうちに誰かが来てくれると。でも、その時は複雑なもので、たとえ私がみんなとどこか一緒に避難して、私の場合、韓国大使館のだれかが身元引受人になって来るとしても、みんなは難民のまま残される。私一人が国籍が違うということで、救い出されるっていうのも、複雑だろうなと思ったりもしました」
豊田−その時、救ってくれるのは、やはり韓国大使館になる?
「ウイーンの韓国大使館になったと思います。でもね、すごく複雑なものがある。一応、日本の団体でしょ。で、同僚たちは、ほとんど日本人。私も日本に住んでいる。でも、何かあっても、日本大使館は私の元には来ないんだろう、と。日本大使館が迎えに来たら、『いいな、みんなあの人たちは日本に行けるんだよな。私は韓国大使館から迎えが来ても、言葉もろくに通じないし、またなんかいろいろ言われるんだろうな』という複雑な気持ちはありました」
「国際関係論」を学び、アイデンティティを探る

会田−もともと国際関係論を学ばれていたということでしたが、きっかけは。
「それは、私が在日韓国・朝鮮人として生まれたからでしょうね。私が生まれたのが1956年。子供の頃、差別が一番露骨化し始めたんだと思うんです。私の前の世代は、一世で韓国、朝鮮半島生まれだし、もともと違うっていうのが、はっきりしているわけですよ。ところが、私たちみたいに、日本で生まれて、日本で教育を受けているのに、国籍が違うということでの差別は、非常に納得できないものがあった。韓国が故郷と言われたって、全然故郷っていう実感もないし、非常に中途半端で、心理的にそういうものを感じやすかった。だから、自殺者が出るのは、この二世って言われる世代からなんですよ。自分自身のアイデンティティに悩む。早い子では12歳で自殺した子がいるんです。あれは70年代でしたけれどね。
 いろいろあったけれど、80年代前後からかな、韓国のソウルでオリンピックが開かれることになって、変わってきたんですよね。対日関係でも非常にはっきりした対応をするようになった。例えば、教科書問題や、政治家のいわゆる暴言に抗議したり。国際社会での国家の位置づけ、自分の所属する国家がどういう国家かで、自分たちの立場も非常に変わるんだな、と思ったら、やっぱり国際社会はどういう仕組みで動いているかっていうのが知りたいと思っていたんです。
 ただ、私はOLをやっていて、非常に残業が多い職場だったので、なかなか勉強がしたくても、できなくて。仕事にもいろいろ疲れ果てていました」
豊田−大韓航空の…
「そう。大韓航空の発券カウンターにいたんですよね。大阪支店、市内事務所でした。それがある日、人事異動で京都行けと言われたんですよね。片道2時間。仕事で心身ともにぼろぼろになるまで働いていた私に、京都に行けとはいったいどういうことか、と思った時に、もうブチっと切れちゃったのね、私(笑)。自分の中でガラガラっと積み木が壊れるような感じがあって。12年近く働いていたけれど、すぐに辞表を出しました。これまで自分がやってきたことが崩れちゃったようなところがあった。もう何もする気が起こらなくて、無気力にさいなまれる日々でした。会社に爆弾を仕掛けてやりたいと思ったこともありました。でも、退職が一つのきっかけになって、留学することになったんです。
会社を辞めたのが90年で、その後、暇つぶしに英語を習いに行ったのがきっかけで、ロンドン大学のサマー・スクールに行くことにしました。それが、LSE(London School of Economics & Political Science, University of London)です」
豊田−ロンドン大学のカレッジのひとつ。
「そう。そこで若い人たちと会って、刺激を受けた。それで、もう一度留学を目指そうと思ったんですよね。やっぱり国際関係論をやってみようと。93年にサマースクールに行って、94年に留学したんです。あの頃から立ち直り始めたのかもしれない。96年にボスニア行きになった頃に、ようやく立ち直るきっかけが自分の中にできたような気がします」
豊田−サマースクールの刺激っていうのは、どういう感じだったんですか?
「取ったコースがナショナリズムの問題だったんです。ナショナリズムっていうのは、まさに私自身の問題で、『何々人であるっていうことはどういう意味なのか?』っていう。そこに来ていた日本人とかユダヤ人とかとケンケンガクガク話していると、とても面白くて、私ももう一度やってみてもいいかなと思ったんです」

空爆の痕が生々しい当時の旧ユーゴスラビア・モスタルの町
日本名と本名の選択

勝本−差別というのは、結構、もうずっと昔から感じることはあったんですか?
「ええ、小学校の頃は露骨に『朝鮮人、朝鮮人』といじめられたから。帰れ、とか言われていたし」
会田−学校は普通の公立に通っていた?
「はい。小学校の時に友達が家に遊びに来るでしょ。当時、日本名を使っていたから、顔もこうだし、黙っていたら分からないんだけど、家に来た子は何か見つけて、『朝鮮人だ!』って分かっちゃって。私が聞いた感じでは、どうも言いふらしてたらしいのよ。それで、他の子が教えてくれたの。『あなた、あの子、あんたのこと、そういうふうに言ってるよ』って」
会田−日本名は。
「森本姫子。幼稚園や小学校では森本だったんですよ」
会田−自分の中に、日本名とか、韓国の本名があるっていうのに気づいたのは、いつごろですか?また、そこに違和感なんかを覚えたりしたことはあったんですか?それはいつごろですか?
「中学の頃ですね。中学に進学する時に、そこの中学は本名制だって言われたんです。大阪市生野区は全国で一番朝鮮人、韓国人が多いところで、中学校の生徒は4人に1人が韓国、朝鮮人だったの。それで、学校では本名制度を取ろう、と。日本語読みだったんですけれどね」
会田−本名は。
「李(LEE)。今でも覚えているんだけれど、小学校6年生の時に、先生がクラスの10人ぐらいに封筒を渡すわけです。家に帰って、ぱっと封筒を開けたら『姫子さんの本名を教えて下さい』って書いてあった。それで、もう一人の友達から電話がかかってきて『なんて書いてあった?』って。彼女も朝鮮人だったの。」
勝本−本名制度を取るというのは、学校の方針だったんですか?
「中学の先生に聞いたら、『やっぱり誇りを持って欲しいというようなことだ』と、言っていました。中学には名札があったんですよ。でもね、やっぱり小学校からみんな一緒に上がってくるでしょ。名札であの名前が書かれてるってことには、ちょっと抵抗感があった」
会田−本名が書かれているほうが、抵抗感があった?
「抵抗があった。つまり、それまで森本って言われていたのに、中学に入ったら急に「李」の名前になって。私は韓国、朝鮮人ですって、付けて歩いているようなもんだもの。小学校から来た友達は、今でも日本名で呼ぶ子はいますね。急に本名で呼べって言われても、やっぱ呼びづらいって。ま、それもそうだろうなと」
勝本−学校で本名制度を取りましょうっていう方針に対して、ご家族の反応というか、考え方はどうだったんですか?
「あまり何も言いませんでした。これって、私たちの中の共通することなんですが、韓国、朝鮮人は非常に職業にも制限があって、まずホワイトカラーが圧倒的に少ない。そうすると、不利な状況の中で家で工場をやったりしていて、子供のことなど省みずに仕事をしなきゃいけないので、結構、子供をほったらかしの家庭も多かったんですよね」
会田−李さん自身は、自分の生まれた環境とか、そのころ取っていた名前とかについて、どのように思っていたんですか?
「やはり、ある日差別され始めたときからすごく嫌だった。中学生の頃でしょうか。ものすごいコンプレックスで、『なぜ私は日本人の家に生まれなかったのかな』と思いました。
 明らかに、友達の家の話と自分の家のことが違うってことが分かるわけですよね。小学生の頃、うちの家では、お膳で食事をしていたんだけれど、母は片ひざを立てて食べるんですよ。近所の日本人の子がそれを見ると不思議なわけで、『ここのおばちゃんてね、こんなふうにしてゴハン食べる』と、格好を真似したり。だから、日本人を基準として、日本人と違うということがすごく悪いことのような気がしていました」
会田−日本人への反発はありましたか?あるとしたら、成長してからなんでしょうけど。
「成長してからですね。学生時代はそこまで余裕も持てなかった。高校に行く時、中学でも本名を使っていたから、その流れで高校は「李」で行っちゃったんだけど、そしたら本名を名乗っているのは、1学年で私1人だけだったんです。私入れて本当は約10人いたらしいんよ。高校は本人の意思で選択できたのだけど、1年は私1人、2年に1人、3年に2人だったの」
豊田−結構、みんな迷いながら、どっちの名前にするか決めている?
「そう。やっぱり大阪の小学校は、今でも本名を名乗りなさいって言うらしいんです。『本名名乗りましょう運動』みたいなもの。ちっちゃいうちは、先生の言うことが絶対だから、聞く。でも、その子たちが中学、高校へ行くようになると、みんな日本名に戻す。今でも。決定的なのが、社会に出た時です。学校時代は、先生たちも守ってくれる。民族に誇りを持てとかなんとか言って。そうやってよいしょしてくれる間はいい。でも、社会に出れば決してそうではない。やっぱり世間の風というのは冷たいものだと。そこで一人で立ち向かっていける強さは、人間なかなか持てないから」
豊田−でも、会社に入っても、中学以降はずっと「李」で通していた?
「うん、ずっと」
豊田−おうちの人も「李」さんだったんですか?
「ううん、森本なの。両親が「森本」で、私と妹が「李」。弟は日本名を使ってる」
豊田−じゃあ、家の中でも…
「ばらばら。私の名前「姫子」を「ヒジャ」って読むってことは、1975年に大阪外国語大学のタイ語科に入学してから初めて分かったんです」
豊田−タイ語科にした意味は。
「意味は一応あって。高校時代から『自分たちは差別されている。でも、なんか欧米の人って差別されてないよな』って思ってたのね。で、アジア人は日本人に差別されるんだと思ってた時に、70年代当時、タイで不買運動など反日運動が一番盛んだったから、潜在的な自分の意識で『やれ、やれ!』っていうのがあったわけよ」
勝本−なんでタイで反日運動が盛んだったんですか?
「貿易摩擦が原因だったんです。経済侵略はいけないということです。田中角栄首相の時代で、不買運動とか盛んにやっていて、タイの学生運動のリーダーが、日本の新聞社からインタビューを受けて、『あなたは日本に何を求めるんだ?』て聞かれたら、『日本人にアジアに戻ってもらいたい』という発言をしたの。『おお、これだ』と思って、タイ語を目指すことにしたんです」
【メモ 在日韓国・朝鮮人】

 1910年に日本が朝鮮半島を併合して植民地化し、朝鮮人が日本に労働、または強制連行されて定住するようになった。戦後、在日の参政権が停止されたり、47年に外国人登録令により外国人とみなされた。日本人ではないとの解釈からの措置だが、一方で、在日にも日本の学校への就学義務があるとし、民族学校を認めない措置を講じるなど、在日の法的地位に関して矛盾した政策を取った。52年に日米でサンフランシスコ平和条約が締結されて日本が占領から解放されたとともに、日本政府は韓国・朝鮮人を中心とした旧植民地出身者の「日本国籍」を剥奪。連動して、外国人登録の際に指紋押捺制度を導入した。また戦争犠牲者への各種の援護、被爆者手帳など生活保障制度から在日を排除した。65年に日韓の国交が正常化され、在日の法的地位に関する協定が結ばれ、韓国籍の在日の永住権(協定永住)を認めた。朝鮮籍の在日には82年に永住権を認めた。その後、日韓協定に関する覚書が結ばれ、91年、「特別永住」が確立された。特別永住は、協定永住、それ以前に平和条約発効後の暫定措置で在留資格が与えられたものなど、複雑に4種類に分かれていたのが一本化されたもの。これに伴い、翌92年に特別永住者の指紋押捺制度が廃止された。この間の80年代、指紋押捺拒否や就職差別など、様々な差別に対する反対運動が高まったが、その担い手の中心は在日2世だった。今も在日の中には日本名を名乗り、出自を隠す人は少なくないが、日本名はもともと、日本が戦前に韓国・朝鮮人に創氏改名を強要したことに由来する。(文責・会田正宣)
韓国、日本との距離感

勝本−ご両親はいつ日本にいらっしゃったんですか?
「戦前。母親は十代って言っていました。父親は、これはうちの母親もよく分からなくて、強制連行で連れてこられたんじゃないか、って。軍事工場で働いていた。大阪に砲兵工廠があったので」
豊田−その時の話とかは、ご両親からはあまり聞かなかった?
「聞かなかった。父親はあまり、そういう話を本当にしなかったのね。口をつぐんでいたっていう感じで。
 でも、最近うちの母親から聞いた話があってね。うちの母親が拉致の問題で、やたら北朝鮮に対して怒るんです。なんか、やたら怒るなと思っていたら、実はね、私が小学生の頃、北朝鮮に帰ろうと思ったんだって言うんです。やっぱり日本での生活が苦しい。北朝鮮に帰ったら、いわゆる夢の楽園じゃないけど、食べるのには困らないんだと。それで私に『北朝鮮に帰ろうか』と聞いたら、私が『北朝鮮は共産国だから嫌だ』って言ったんだそうです(笑)。この子は嫌がってると思って帰らなかった、って(笑)。でも、全然覚えてなくて。だから、もし私たちもあの時帰ってたら、ひょっとしたら…。もう、イギリス留学どころじゃないと思うんです。
 でも、私と同じ年の親戚の子は高校生の時、もう30年前に帰りました。いろいろあって、日本社会でぐれちゃったから。あと、父方の叔父叔母はいるって言われているんですけれど、消息ははっきりしません」
豊田−お父さんとお母さんの出身は?
「韓国のチェジュ(済州)島から来ました。だから、私はイギリスに、サマーコースを入れると3回留学できたんだけど、今思うと自分自身、不思議なものがありましたね。自分の中で、自分が何人か分からない、というアイデンティティの問題は抱えたけれど、変な話、私がもし韓国に生まれていたら、アイデンティティで悩むことはなかった。でも、私の年代の韓国の経済力で、果たしてイギリスに私費留学ができたかというと、おそらくバツだったんじゃないかと思うんです。私は日本にいたから、イギリスに留学できる環境にあったと思った時に、人生において一体何が私にとって一番大事だったのか。やっぱり私の中で、イギリスに留学できたということは、非常に大きいものがあるし、人生の選択ができたというのが大きかったんです。
 でもね、私が大学の頃に自殺した人がいました。山村さんという人で「わが命、燃え尽きるとも」という本を書いた人。彼は韓国人として生まれたけれど、親が日本国籍を取った。彼はそれが嫌で、自分は元に戻りたい、自分はどんなに貧しくとも韓国に生まれたかった、といって自殺してしまった。非常に激しい。
 韓国に生まれたら、恐らく私は留学できなかった。日本にいたからできた。人生において、何が一番、私にとっては譲れないことだったのかということは考えちゃいました」

豊田−自分に初めてそういう折り合いをつけたってこと?
「そうやね。だから、2回目のイギリス留学から帰ってきた時に、開き直れるようになりました。別に私は韓国人だけれども、日本の影響を非常に受けている。その影響は絶対無視できない。だって、韓国じゃなくて、日本で生まれ育って、日本の食べ物が好きで、日本語をしゃべって。韓国語を覚える必要性もない。現実は、もう日本の影響を受けていることを無視できない。だから、それでもいいんじゃないかな、って。
 1回目の留学の時は、まだやっぱりいろいろ差別されたっていうこともあって、日本が嫌だっていうのがあった。だけど、日本の影響を大きく受けていて、その影響を受けているものが嫌だっていうのは、自分を嫌いだって言ってるような気がして、これはちょっと嫌だった。
 2回目にサセックスに留学した時は、もうこれが現実なんだと。自然な流れでいけば、日本国籍を取るほうが私の場合は自然だと思えるようになりました。私、韓国に本籍があるんだけれど、戸籍謄本ていうのがあるんですよ。よう取りに行かんもん(笑)。行っても、どこか分からない(笑)から取れない」

勝本−韓国に行かれたことはあるんですか。
「何回もあります。でも、私好きじゃないんです、韓国。キャラクター的に合わない(笑)。大韓航空の飛行機に乗って、隣りに本国の韓国人が横に来たら嫌ですね。変に人なつこいものだから、私が韓国人だと思ったら、いろいろ話しかけてくるのね。悪気はないんだけれど、結構立ち入ったことを聞くの。『あ、韓国人?日本に住んでるの?年はいくつ?結婚はしてるの?なぜ、結婚しないの??』余計なお世話でしょ(笑)。ソウルの町は人が多いから、ぶつかっても謝らないし」
勝本−韓国へは、どういう関係で…。
「仕事で行ったり、あとはソウルでちょっと降りて、というぐらい。大韓航空に勤務していたから、飛行機はただで乗れました。ただ、満席だったら降りなくちゃいけないから、とりあえずソウルで1泊して、次の日にまた飛行機に乗る。だから、ホテル周辺を歩いていただけだったんですけれど」
豊田−あんまりじっくり巡ったということはない?
「ソウルはそう。でも、プサンの南、チェジュ島は70年代後半、大学生の時に母方の親戚の家に泊まりました。すごいカルチャーショックで、もう二度と行きたくないと思った。だって、生活環境が全然違うんです。例えばね、おトイレがない家があるんです。
 親戚の家に行って、『すみません、おトイレどこですか?』と日本語が分かる人に聞いたら、「あなた、大丈夫かなあ」って。行ったら、何も囲いがない。用を足す下に豚が歩いている。豚がそれを全部食べちゃうから。ショッキングだった。水道は家にあるわけでもないし」

"永住者"へのこだわり

豊田−でも、イギリスから帰ってきて、日本国籍を取るほうが自然だと思えるようになる前は、やっぱりそれでも自分は韓国人だ、と…。
「そう思ってた。やっぱり肩に力を入れて、私は韓国人なんだって。思わなきゃいけないっていうところがありました。
 今は、日本国籍を取るのが自然だと思うけれど、日本の国籍取得制度は問題があるから、制度が今のままでは取りたくないんです。例えば、韓国、朝鮮人で、旧植民地出身者、戦前から住んでいる人の子供ということで、届けを出した人には無条件でということなら、取る。そうでないなら、取らない。イタリア人が日本に来て、5年間住んで、例えばその人が手続きをする。それと私たちが同じ土台に乗るいうのは、おかしいと思っているんです。私たち在日は、実際に日本人と同様に日本に住んでいる。でも制度的には日本人と同等でない。実態がかみ合っていないというギャップが、今私たちの状況にはあるんです」
会田−指紋押捺の体験は、どうですか。
「あ、もう、ずっとやりましたよ。私が永住者になる資格を取ったのが、法律が変わって、特別永住者ということになったんだけれど、それまでは私は3年にいっぺん、入管に行って、滞在許可を延長してたんです。本当は、取ろうと思えばすぐに永住資格が取れました。私の場合は紙一枚書けば、永住者っていうことになったんだけれど、『いいや、3年にいっぺん、ここに来よう』って思って行っていたんです。自分なりのポリシーがあって」
豊田−取ろうと思えば取れたのに、どうしてですか?
「取らなかったのは、要は私たちの存在っていうのは、非常に日本政府の公的地位において、故意にゆがめられた、きちっとした人権というのが守られない存在なんだ、と。日本で生まれ育っているのに、税金も納めているのに、法律的には3年にいっぺん来る、というのはおかしい。こういう事実は、残さないといけないんだと思ったんです。期日を1日でも超すと、私は超過滞在の人間になったんですよ。オーバーステイ。
 年をとっても、3年にいっぺん行く。入管の担当者も『いまだにこんな人がいる』と思う。近所の子供が『おばちゃん、なんで3年にいっぺん行くの?』って聞く。そうしたら、『おばちゃんはね』って話をして、伝えていかなくてはいけないんだと。なんて思っていたら、一本化ということで特別永住者になって、『もう来なくていい』ってなっちゃって(笑)。
 でも、ある時、入管の人に『アンケートに答えてもらえますか?』と声をかけられて、『なんで取らないんですか?』って聞かれました。アンケートに答えたお土産に、ボールペンもらいましたけれど(笑)」


人生観変えた東欧のことわざ

会田−留学先で折り合いが付いた時、っていうのは肩の力が抜けた感じだったんですか?
「この世の仕組みというものを自分なりに勉強して、『国籍とは、民族とは』についてきちんと整理して考えられるようになりました。結構、私たちの中で問題があるのは、民族イコール国籍と考えるわけです。日本国籍を取ったら、もう裏切り者になっちゃう。別に日本国籍を取っても、自分自身が育ってきた環境を変える必要はないわけで、紙の上のことだけのはず。そんなに深く考えなくてもいいのに、なぜか日本国籍を取ったら『民族を捨てた』とか『裏切った』とか。
 私、今思うと不思議なんだけれど、大学時代はね、日本人と絶対結婚しちゃいけないと思ってたんですよ。そうしたら、ダメだと」
会田−純血じゃないと、と。
「そう。日本人と結婚したら、結婚式で着物を着なきゃいけなくなるとか。日本人と結婚しても、着物を着る必要はないし、自分自身、変わることってそうないと思うんです。だけど、当時は自分もそう思っていたし、両親たちもみんな思っていた。だから、お見合いがすごく盛んだったんですよ」
勝本−それはどうしてですか?
「日本人と結婚されたら困ると。だから、さっさとお見合いして。お見合いってのは、すごく大変なことで、百回お見合いしたって人もいるのよ」
勝本−百回!?
「聞くと、何十回ってお見合いしている人なんてザラだったの」
豊田−お見合い、してたわけですか?
「私はそんなにしなかった。数回しただけ(笑)」
豊田−つまりは、そうした民族=国籍という観念から、解き放たれたっていう感じなんですか?
「そうそう。勉強をちゃんとして、別に民族イコール国籍じゃないし、国際社会の仕組みをどう考えていくのか、って。
 2回目のイギリス留学で、市民社会(=CIVIL SOCIETY)のことを勉強していた時に、たまたま見た論文で"LET ME BE, LEAVE ME ALONE, DON'T TRY TO TELL ME HOW TO LIVE"という言葉に出会いました。東ヨーロッパの古いことわざでした。私の訳で言えば『私は私、もうほっといてくれる?』っていうこと。私の生き方は私が決めるんだ。私に『こういう生き方をしなさい』なんて指南するのやめてちょうだいよ、と。『あ、これなんだ』と。私はひょっとして、この言葉に行き当たるために、こういう生き方をしたいために、勉強し始めたんじゃないか、と思ったんです。東ヨーロッパで共産主義がつぶれたのは、実は経済がどうこうじゃなくて、『共産党が指導して決めてあげます』ということに対し、自分のことは自分で決めたいんだ、となったからじゃないかと。
 それが、CIVIL SOCIETYと関係する。つまり、自律ある世界。私はこの言葉に行き当たった時に、自分自身も解放できた。いろんなところで、自分がひとつに合わさった。私は随分、韓国人であることや、会社に自分自身を縛り付けていたんじゃないか、と。国家からの縛りいうのもある。だから自分自身でどうやって自律して生きていけるか。個人がどうやって、自分自身の力で生きるか。そういうことじゃないか。
 それで最近は『ブランドなし』を目指そうとしているんです。何にもない私。例えば、名刺もない、肩書きもない。所属もない。それで、どこまで通ずる人間になれるか、というのを目指そうというふうに思って。友人の一人が笑って、『もともとブランドなんて、ないじゃない』って言うけれど、『何言ってるの、これを本物にするんじゃないの!』って応えてる(笑)。
H:結局、差別というのも、そういうことじゃないですか。本当のその人を見ないで、どこに住んでいたかとか、どこの出身だとか、そういうことでしか人を見られない。だから、自分自身を民族や国家から解放するっていうのは、なかなかできない。『解放する、解放する』と思って、解放できるものでもなくて。なんかそう思った時に、最近、本当に松田聖子のように我が儘な人が好きになったんです。あんなに世間で騒がれてても、白々しく、大きいタオルで、涙も出てないのに、涙をぬぐう真似ができる(笑)。あれはいいですよ」


国家と群集


会田−話が変わりますけれど、国際関係の勉強の専攻は。
「主テーマは、グローバリゼーションの中での、個人と国家の関係の変遷ということですね。変化もあるけれど、なかなか変わらない部分もある。とりわけ、一番国家と個人の関係が分かるのが、市民社会じゃないかと思っているんです。私は、今の時代は決してグローバリゼーションだけじゃなくて、インターナショナライゼーション、つまり本当の意味での国際化という要素もあると思っている。
 だから、経済は非常にグローバル化が進んでいると思うんだけれど、例えば何か起こった時というのは、やっぱり国家と国家が出てきて、初めて交渉となる。国家を超えておらず、国益を重視している。拉致問題なんかもそうだし。そういう部分がまだ残っていて、一方で昔ほど国家、国家となっていない面もあって、国家自身がこう、変容していっている部分はあると思うんですよ。その辺を見極めたい。どの部分が変わって、どの部分が変わっていないか。
 以前ほどは個人も国家にとらわれてないところもあるれど、じゃあ個人が自由に国家を移れるかって言ったら、決してそんなことはないですよね。難民になった時も、受け入れてもらえる人と受け入れてもらえない人がいるし、私がこの国籍を取りたいからって、自由に国籍を変えられるか、っていったら、そういう時代でもない。
 クルド人たちが、どうして国家を持ちたいと思うか。特にパレスチナなんか、やはり独立したいわけです。国家を持ちたいのは、国家こそがまだ、自分たちの安全保障の拠りどころになっているから。パスポートがなければ、自由に行き来ができないわけじゃないですか、今の世界って。難民となったら、ビザを取るのは非常に大変だし。どこの国家に属するかで、その人の人生が決められてしまう、っていうのはまだ大きいと思うんです。
 パレスチナも国家を持ったら、アラファトなどのファタハは多分、テロって言われなくなると思います。軍隊だと。パレスチナ軍になると思うのね。同じことを国家がやったら、国家に対してはテロと言わないわけでしょう。クルド人たちも国と言わないまでも、自治を持ちたいのは、自分たちの意思行使は、自分たちの国家を持つことで初めて可能になると思っているから。とすると、まだまだ、グローバリゼーションで国家が相対化されて、以前ほど意味を持たなくなっているとは、簡単には言えないと思うんです。まずはこの状況を、きちんと直視することは大事だと思います」
豊田−でも、それは、やっぱり国家にとらわれて、さっきの話じゃないですけれど、肩に力が入っているということと、つながっていく。本当の市民社会みたいなものになるまでには、まだ何段階も手前の状況なんじゃないですか。
「そうね。本当だったら、国家にとらわれないで、と思うけれど。
 私たち在日の中でも、まだまだ民族=国籍というふうに、非常にとらわれている側面が強い。私は自分自身が勉強することで、決してとらわれる必要はないんだと思ったけれど、今の世界のあり方、現象を見たときに、めでたくもグローバリゼーションで国家が意味を持たなくなっているか、というと、やっぱりそういう言い方もできないな、とは思いました。
 私は大韓民国のパスポートを持つことで、だいぶノービザで行ける国が多くなりました。一方で在日には朝鮮籍の人たちもいますが、朝鮮籍だと難民扱い、みたいな所があって。日本政府が発行する渡航証明が出ないと、どこかに行けないから、非常に申請が大変なんです。だから、とりあえず、韓国籍のパスポートでもありがたいと思っています。私、韓国政府に税金を納めた覚えがないんだけど(笑)。
でも、外国に出た時に何かあったら、日本の外に出たら、韓国大使館に行かなきゃいけないんですよね。で、言葉がろくに通じないから、もう嫌な顔されるだろうな、とか。日本人なのか韓国人なのか訳が分かんないのが来たよな、っていう。割とすごくナショナリスティックなところがあって、『韓国語がしゃべれないのは韓国人じゃありません』みたいなところがあるんですよね」

「この写真ですが、子供の頃、1歳の時の私の写真です。アントニオ・ネグリという人が最近、「帝国」という本の中で言ってるんですが、国家の保護を受けられず、市民になれないような立場の人を、群集と定義づけている。要は私っていうのは、市民じゃない、群集の出なんです。群集は国家の保護をきちっと受けられないから、自分たち自身で、インフォーマルにネットワークを作って、お互いに支え合って生きていく。写真に写っている人たちはまさに群集ネットワークの見本みたいなものです。この人たちは肉親じゃなくて、みんな母親の友達です。右の人が「ハマニ」、おばあちゃんという意味なんですけれど、子供の頃、よくそう呼んでたのよ。でも、実際のおあばあちゃんではなくて、単なる母親の友達だったんです。でも、母親はこういう人たちと暮らしたり、助け合うことで、日本の中で生きて来ることができたんだと思います」



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