NIYONIYO              都市への視線

   〜多メディア作家・安部公房の場合〜

           

 タンクローリーの後姿。ナンバープレートの上に、ステンレス製の横長の楕円。偶然にも風景を映し出している。集合住宅らしき矩形の建物が蜃気楼のようにゆがんでいる。建物の屋上のアンテナも、楕円の中心に向かって曲がっている。四次元空間が日常の風景の中に浮かび上がったようだ。

 『都市を盗る』というタイトルで、『芸術新潮』に連載していたフォトエッセイに収められた写真の一つだ。月に一冊ずつ刊行されている全集のうち、昨年十二月に出た、『安部公房全集026』(新潮社)に掲載されている。

 安部公房の説明は不要だろう。『砂の女』、『他人の顔』、『箱男』などの代表作が二十数ヶ国語に翻訳された、日本の現代文学を代表する世界的な作家。だが、この作家がマルチメディア・アーティストだったことは、あまり知られていない。

 カメラに凝り、写真展も数回開き、当時気鋭の若手俳優、田中邦衛、市原悦子、仲代達矢らが参加する劇団をつくり、脚本・演出を手がけた。

 新しいもの好きの人でもあった。コンピューターが高層ビル一つくらいの大きさだった時代に、未来を予知するコンピューターを小説に登場させた。ワープロに切り替えたのも、早かった。死後、フロッピーディスクから遺稿が出てきたのが話題になった。自らの劇中の音楽などをシンセサイザーで作曲したのも、まだ、日本に数台しかシンセサイザーがない時代だったと言われる。『砂の女』の映画音楽を作曲した武満徹に、目を輝かせて自分の曲を聞かせたら、「武満君は腰を抜かして驚いていたよ」と嬉しそうに語ったという。

 インターネットが普及したデジタル時代のいま、安部公房がもし、生きていたら……。ネットサーフィンに夢中になり、デジタルカメラで都市の風景を撮影してはホームページに載せていたかもしれない。

 複数のメディアで行った創造行為が、有機的につながり、互いに影響し合っていることも、マルチメディア作家のゆえんだ。写真は小説のための「取材メモ」になり、小説は戯曲にリライトされた。写真を見ていると、小説との不思議な近似が浮かび上がってくる。都市の日常風景を撮ったカメラは、日常の中にある一瞬のゆがみ、新しい断面を印画紙の上に拡大して見せてくれる。それは、彼の小説に登場する人物たちがはまり込む、都市の迷宮によく似ている。

城市(都市)のデザイン作品。チャンヤンピンさん作

城市(都市)by 程彦平

 巨大で複雑な都市に生きる僕ら。その中での日常生活の多くは、自分自身が動かす時間ではなく、時計の針が動かし、繰り返しと既視感にあふれた均質的な時間に追いかけられている。僕らが見ている風景は、風景のごく一部に過ぎない。道路上では点灯する信号、道路標識、電車に乗れば開閉する扉、駅名の看板、必要不可欠なものを反射的に見ているだけだ。無論、注視しなくても、事足りるのだから、視線が弱くなるのはあたりまえかもしれない。都市の日常は、それくらい、平板で、機能的だ。

 安部公房の写真は、そんな都市の日常の中に隠れた非日常を描き出している。僕らの死角をえぐるように。

「カメラでしか捉えられない世界がある。シャボン玉が割れる瞬間だとか、床に落ちたガラスのコップが砕ける瞬間などだけではない。はやすぎて見えない動きだけでなく、例えば地下道の片隅のような、心理的に見ようとしない場所もその一つだ」(全集二十六巻)

 カメラは作家のもう一つの目だった。

(赤田康和)


トップに戻る 

感想コーナーへ行く
メールで感想をお寄せいただいた方に、オリジナルデスクトップ壁紙プレゼント!